第二次世界大戦後、日本は復興のためのテクノロジーを必要としていました。産業政策に後押しされ、1950年代に最初の企業がデュッセルドルフに進出し、今日、デュッセルドルフの日本人コミュニティは約8,500人で、経済的だけでなく文化的にもデュッセルドルフを形成しています。コンスタンティン・プレット氏は博士論文の中で、デュッセルドルフの日本人コミュニティが誕生した経緯、そして、70年の歴史の中でどのように発展してきたかを研究しました。J-BIGは、彼の研究、デュッセルドルフがビジネス拠点として魅力的になった背景、そしてデュッセルドルフと日系コミュニティの交流について、お話を伺いました。
――日系ビジネス拠点としてのデュッセルドルフの起源と発展についての論文が出版されました。博士論文にこのテーマを選んだ理由は何ですか?
コンスタンティン・プレット:私は学士課程と修士課程で日本学を専攻し、その間、日本社会と日本の社会問題を集中的に研究しました。また、デュッセルドルフ出身ということもあり、デュッセルドルフの日本人コミュニティについて、長い間興味を持っていました。なぜこれほど大勢の日本人がデュッセルドルフに来たのかという疑問には、これまで研究レベルでは具体的な答えが出ておらず、この研究テーマに関連してゲルダヘンケル財団より研究助成金のオファーもありました。こうしたさまざまな要因が絡み合って、この研究テーマに行き着いたのです。
――このテーマにはどのようにアプローチしましたか?
コンスタンティン・プレット:私の主な調査方法はアーカイブ調査とインタビューでした。前者については、デュッセルドルフ市のアーカイブや日本の政府機関や企業などのアーカイブを数多く利用しました。当初、調査を開始したのはデュッセルドルフでしたが、その後日本も訪問し、日本側のアーカイブにどのような調査が残っているかも確認しました。日本語を勉強していたので、日本語の資料にアクセスすることができたのはとても助かりました。両方の視点からこのテーマを見ることが、私にとって非常に重要だったのです。
――ドイツと日本の情報は具体的にどこで探しましたか?
コンスタンティン・プレット:当初、多くの日系企業はハンブルクに拠点を置いていました。そのため、日本人コミュニティの出現の歴史に関する資料は、ハンブルクに多くあり、デュッセルドルフにはありませんでした。デュッセルドルフ市の公文書館には、1960年代までさかのぼる日本と関係のある事業所に関する情報がありますが、デュッセルドルフへの移動が実際に始まったのは1950年代であることが分かっています。ハンブルクへの日本企業の最初の進出と、その後の1950年代のデュッセルドルフへの移転に関する情報を得るために、私はドイツと日本の企業アーカイブや日本企業の年代記に頼らざるを得なかったのです。公文書調査の大部分は、日本関連のトピックについて新聞を検索することから成っていました。調査期間は1950年代から、日本のバブルが崩壊した数年後の2000年初頭まででした。
インタビューでは、1970年代から80年代にかけてデュッセルドルフに支店を設立した日本企業の駐在員や、経済発展の文脈で早くから日本との接点を持ち続けた地元の発起人を含む、この地の歴史に関わる約30名の関係者に話を聞きました。インタビューはドイツ語と日本語で行われ、最終的に、25名のインタビューが収録されています。このインタビューとアーカイブ調査によって、日本人コミュニティと日系ビジネス拠点としてのデュッセルドルフの歴史を可視化することができたのです。
――リサーチ期間はどのくらいでしたか?
コンスタンティン・プレット:研究プロジェクトは、2018年12月に正式にスタートしました。ゲルダヘンケル財団からの助成金のおかげで、プロジェクトにフルタイムで集中することができました。最初の一年半は純粋な研究期間で、2020年の夏から並行して執筆を始め、2021年末には研究が完了しました。特に資料の評価には多くの時間を費やしましたね。
――日本人社会のハンブルクからデュッセルドルフへの方向転換があったとのことですが、かつてハンブルクに進出した日本企業がデュッセルドルフに移った理由についてはどう考えていますか?
コンスタンティン・プレット:第二次世界大戦後、日本は焼け野原となり、復興のための技術を必要としていました。通商産業省(現在の経済産業省)は、産業政策を通じて計画経済を確立しました。企業の海外での技術取得を可能にすべく、資本が提供され、税制上の優遇措置がとられました。日本は当時、軽工業、繊維、消費財の純粋な輸出国でした。産業を近代化するためには鉄鋼が必要でしたが、鉄鋼業は戦後、ドイツほど発展することはありませんでした。そのため、政府は鉄鋼産業を優先し、この分野において発展した企業に対して特別な支援が与えるようになりました。占領軍によって解体された企業は自己資本がほとんどなく、国の補助金に依存していました。
デュッセルドルフは元々、石炭・鉄鋼業の大企業の本拠地があり、20世紀以前から、周辺地域はドイツの鉄鋼の中心地でした。そのため1950年代初めには、鉄鋼業に強い日経企業が進出してきました。一方、港のおかげで輸出入が円滑に行えていたこともあり、ハンブルクには軽工業製品を扱うドイツの商社が多く進出していました。それに伴いハンブルグには繊維を中心とした日本企業が進出していきました。
その後、1950年代から1960年代にかけて産業構造が変化し、重工業が軽工業よりも重要性を増し続けると、デュッセルドルフはますます多くの企業を惹き付けるようになり、多くの企業がデュッセルドルフに拠点を移しました。デュッセルドルフのビジネス拠点としての核の背景にはドイツの鉄鋼業と戦後の日本の経済政策がありました。
――当時、日本企業はすでにドイツをマーケットとして獲得するつもりだったのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:日本企業の目的は、特に鉄鋼業における技術の特許を購入することでした。例えば、圧延用プレス機や鉄加工機の製造に関する特許です。ドイツや米国に比べて、当時の日本は鉄鋼業において世界的なプレイヤーではなかったため、ドイツ企業はノウハウや特許を比較的安価に日本企業に売却しました。こうして技術獲得が始まりました。日本製品がドイツ市場で販売されるようになったのは、さらに後のことでした。
――デュッセルドルフに進出した最初の商社について教えてください。
コンスタンティン・プレット:調べてみると、東京貿易、藤商事、大倉商事の三社でした。東京貿易は、1950年という早い時期にデュッセルドルフでドイツの鉄鋼メーカーと最初の商談を行い、1949年に通産省が設立されたわずか一年後、同社はコンタクトを確立するためにドイツを訪れました。1954年には、三菱商事と三井物産の最初の支店が設立されました。大倉商事は総合商社で、1952年にデュッセルドルフに最初の駐在員事務所を開設しました。
――当時、日本企業とドイツ企業にはそれぞれどのような特徴があったのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:日本では、第二次世界大戦後、米国の占領軍が財閥を解体したため、一般的なリストラが行われました。そして取引コストを削減するための代替メカニズムとして、日本企業の経済グループである「系列」がその役割を担いました。日本企業は外部資本に依存していたため、総合商社と企業は銀行を中心に組織化されました。同じ銀行から外部資本を調達する企業はグループを形成、つまり、三菱銀行を主要な資本供給元とする企業は全て三菱系列に属する形になりました。同じ系列に属する企業は緊密な取引関係を維持し資本所有において相互に絡み合っていたりと、系列構造はビジネスにおいて重要な役割を果たしていました。
日本企業はこの構造をドイツに持ち込み、総合商社は系列の中で重要な役割を果たしました。というのも、メーカー各社は商品を海外運送を総合商社に依存していたからです。その結果、総合商社がデュッセルドルフに進出すると系列企業も一緒にデュッセルドルフに進出しました。
ある系列の複数の企業が一つの場所に拠点を構えると、他の企業も続き、業種の垣根を越えて拠点が拡大していくという、いわば多面的効果がありました。そして1970年代、いよいよ銀行が参入しました。デュッセルドルフの企業は日本の系列構造とは正反対でした。当時、日本には三菱、三井、芙蓉、第一勧業、三和、住友の6大系列がありました。そしていずれも総合商社や銀行の支店を持っていました。
――数字で表すと、立地はどのように発展してきましたか?
コンスタンティン・プレット:デュッセルドルフに日本企業が進出し始めてから最初の国勢調査は1961年に行われました。当時デュッセルドルフの日本人人口は279人でした。1963年、デュッセルドルフには12の日系総合商社があり、この頃にはハンブルクからの進出者も増えていました。日系企業が系列に強力に統合されたため、デュッセルドルフに定住する企業はますます増え、その影響を受けデュッセルドルフに住む日本人の数も、着実に増えていきました。1965年には800人の日本人がデュッセルドルフに住んでいました。このコミュニティが、彼らの子供たちのために日本人学校などの独自のインフラを作り、それがさらなる流入を促進したことは言うまでもないでしょう。その結果、人口は飛躍的に増加し、1970年にはデュッセルドルフとハンブルクの日本人人口は同じでしたが、その5年後にはすでにデュッセルドルフに住む日本人の数が大幅に増え、1980年代半ばには、ハンブルグの2000人に対し、デュッセルドルフには約4,000人の日本人が住んでいました。
――インフラはどのように整備されたのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:この発展おいてに重要な役割を果たしたのは、1960年代半ばにデュッセルドルフに設立されたJIHK(日本商工会議所)や日本人クラブといった機関でした。日本人クラブは1950年代にすでに最初の日本人の集まりを開催していましたが、協会として正式に登録されたのは1964年でした。そこには日本人食堂もあり、日本から物資が輸入されてました。1966年に設立された日本商工会議所は、日本企業を代表し、立地要因をさらに魅力的なものにするのに貢献しました。当時、日本企業は日本とドイツの両方で課税されていたため、多くの企業がドイツでの事業登録やビジネスを躊躇していました。そんな中、日本商工会議所は、日本とドイツ連邦共和国との間で協定が結ばれるよう働きかけました。
典型的な駐在員は、数年の職務経験を持つ若い労働者であったため、多くの若い家族がデュッセルドルフにやってきました。これらの家族は通常、3年から5年間海外に滞在した後、日本に帰国します。しかし海外から就学児童が戻ってくることは、日本社会にとって社会問題とみなされていました。日本人学校設立のきっかけは、デュッセルドルフの外国人在住者コミュニティでした。デュッセルドルフ日本人学校は欧州で最初の日本人学校でした。当時、まだ米国にもそのような学校はなく、そのため多くの家庭が子供を日本人学校に通わせるために、わざわざ駐在先としてデュッセルドルフを選ぶようになりました。企業もまた、海外駐在員の意欲が高まるにつれて、デュッセルドルフに居を構えるようになりました。
――今やインマーマン通りは「リトル東京」として知られ、デュッセルドルフの日本人コミュニティの中心となっています。企業はもともとどこに定住していたのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:当初から企業は中心部に拠点を構えていました。インマーマン通りだけでなく、ケーニヒスアレー、ベルリンアレー、シャドー通りにも拠点がありましたが、当初はまだ大きな支社ではなく、数名ほど在籍する駐在員事務所が一般的でした。彼らは活発な都心を選びました。しかし、企業が成長するにつれて新たなニーズが生まれ、それが移転につながりました。現在でも、インマーマン通りには主に日本食レストランや日本食材店があり、時折小規模の日系企業も見受けられます。1970年代以降、日本からの直接投資が増え、大規模な支店が建設されるようになったため、多く企業が商業用地がある場所を探すことが多くなりました。例を挙げると、ラーティンゲン、ウィリッヒ、そしてその周辺の地域です。これらの商業用地は、とりわけ貿易税が低いという点で魅力的でした。この地域もデュッセルドルフとしてまとめられることが多いですが、実際この地域はデュッセルドルフ市の外に位置しています。ミクロレベルで見れば、企業のニーズが変化したため、長年にわたって周辺都市への移動が進んできたことは確かです。
――ドイツ側はいつ、日本人コミュニティーの拡大に気づき、対応したのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:デュッセルドルフ市がロケーションプロモーションに関心を持つようになったのは、1960年代の初期からです。デュッセルドルフは、この都市の国際性を表現するユニークなセールスポイントを探していました。そして早くも1950年代には、デュッセルドルフをインドの拠点として売り込もうとする試みがなされていた。そして1960年代半ば、デュッセルドルフ市は日本のインフラ整備に注目し、これをデュッセルドルフのユニークなセールスポイントとしてアピールしようとしました。そこから、インフラをさらに促進するために日独センターを設立するというアイデアが生まれ、この提案は、インマーマン通りにある日航ホテル(現在はクレイトン・ホテル)で実現しました。日独センターの最初の構想は1963年にデュッセルドルフ市から出されたもので、当時はまだ「ジャパンハウス」という名称でした。当初の構想は、センターを作り、日本でのマーケティングをより効果的に行うために、日本のすべての機関や企業が入居するビルを建設するというものでした。しかし、1960年代にはまだ経済レベルで日本企業に対する不信感があったため、このアイデアも多くの批判にさらされ、最終的にセンターが完成したのは、最初の草案から15年後の1978年のことでした。設立当初は、日本国際交流協会、日本総領事館、東京銀行も入居していました。
デュッセルドルフ市のイニシアチブのもう一つの例は「日本ウィーク」で、その原案は当時の経済開発局から出たものでした。デュッセルドルフ市は、1950年代の早い時期から「英国ウィーク」や「スイスウィーク」といったイベントを企画し、市の国際的な側面を強調してきました。ライバルのハンブルク市では、1964年に早くも最初の日本ウィークが開催されていました。デュッセルドルフでは1966年にこの構想が持ち上がりましたが、デュッセルドルフ市と日本側はどちらが費用を負担するかについて長い間合意できませんでした。しかし何度も話し合いを重ねた結果、両者の距離は縮まり、互いへの理解が深まり最終的に、両者は費用を分担することに合意し、1983年に花火を含む第一回日本ウィークが開催され、イベントは大成功を収めました。2002年からは「日本デー」と名称が変わり、毎年開催されるようになりました。
市はまた、日本人学校の重要性と経済的な可能性を早くから認識し、土地代を免除しました。これにより、学校は財政的に有利な立場に立つことができたのです。
――特許取得後、日本製品のドイツへの輸出も始まったとのことですが、当時について詳しく教えてください。
コンスタンティン・プレット: 1960年代には、ボールベアリングのような小型機械だけでなく、産業機械も含め、鉄鋼、鉄、機械が売られました。1970年代から80年代にかけては、輸出が再び急激に増加し電子産業へと拡大しました。ハンブルクでは民生用電子機器が中心でしたが、デュッセルドルフでは半導体や自動車部品などのB2B部品が中心でした。輸出が増え、輸入が減るにつれ、日本企業への批判が起こり、輸出を制限する貿易規制がかけられるようになりました。そこで日本人はこう考えたのです。「よし、これだけ輸出が制限されるならドイツ国内に支社立ち上げに投資し現地で直接製品を売ろう!」
1984年、東京で「ドイツ産業博」が開催されました。この見本市はドイツの大手企業だけでなく中小企業にも日本での存在感を示す機会を提供しました。実施にあたっては、通産省や日本貿易振興機構(JETRO)との協力もあり、市場を規制することは意味がないとの意見が一致しました。その代わりに、企業間の対話を生み出すことが目標とされ、その結果、デュッセルドルフに日独産業協会(DJW)が誕生しました。JETRO自体は当初、日本企業の技術獲得を支援することを目的としていましたが、輸出のための市場知識が加わり、次第に日本企業が海外の製品を日本に持ち込むのを支援する組織へと発展しました。
――1980年代の好景気の後、1990年代初頭にバブルが崩壊し、日本経済は深刻な不況に見舞われました。その影響はデュッセルドルフにも及んだのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:1980年代の好景気の中、デュッセルドルフの日本人社会は再び大きく成長しました。これはプラザ合意によるもので、国際通貨市場への影響力をコントロールすることで、米ドルを円やドイツマルクに対して切り下げるというものでした。その結果、日本円は割高になり、日本企業の海外投資はさらに増加しました。直接投資が増加し立地も大幅に拡大しました。
当時、デュッセルドルフには約300社の日系企業がありました。一方バブル崩壊から数十年経った現在では約400社。不況はありませんでしたが、日本企業の投資意欲の減退により、この地の成長は停滞しました。駐在員の派遣は減り、現地スタッフの雇用が増えました。経済停滞のため、倒産したり合併せざるを得なかった銀行もありました。そして日本企業は外国資本市場に門戸を開かせざるを得なくなり、これらのリストラは、系列構造を崩壊させました。こうした構造が消滅したことで、デュッセルドルフにとって重要な牽引要因も失われていきました。
――デュッセルドルフの日本人人口がピークに達したのはいつですか?
コンスタンティン・プレット:最初のピークは1992年で、約6,000人の日本人が住んでいました。その後人口が減少し、長年4,000人前後で推移していましたが、2014年になって再び6,000人の大台に乗せることができ、それ以来再び増加し、現在では約8,500人の日本人がデュッセルドルフに住んでいます。その間、日本人の人口も多様化していますね。以前は、インフラ関連のサービス業者や駐在員が日本人の中核を形成していましが、現在では、多くの若い日本人が働きに来ており、ドイツに永住し、ドイツで家庭を築くケースも増えています。さらに、デュッセルドルフの日本人学生やアーティストの数も増えましたが、1992年には1,000人ほどいた日本人学校の学生数にはだ達していません。今では多くの日本人の子供たちが現地の学校に通って、日本の教育システムに対する需要が少なくなってきてるのも一つの要因でしょう。
――バブル期の繁栄は、日本企業の対ドイツ投資にどのように反映されたのでしょうか?
コンスタンティン・プレット:その一例が、1980年代に日本の投資で建設されKosaidoゴルフクラブです。日本では今でもゴルフはビジネス関係を築く上で重要な役割を果たしていおり、さらに、ちょっと高価な趣味は富の表現でもあります。日本の企業家にとって、日本のゴルフ場を持つことは、まさにハイライトでした。このような投資はバブル期の富の表現であるといえるでしょう。
――バブル経済崩壊後のこの30年間の発展を表現するとしたら?
コンスタンティン・プレット:この30年間で、日本企業の競争は激化し、他の都市に移転する企業も出てきました。例えばデュッセルドルフは、2000年代に入ってから、もはやビジネス拠点として孤立したケースではなくなっています。特定の分野では、ミュンヘン、フランクフルト、そしてある程度ベルリンといった他の都市がその地位を確立しています。例えば、フランクフルトは、1990年代の危機の後、日本の銀行のリストラで重要性を増した。一方、ハンブルクは今日、従属的な役割しか果たしていないと言えるでしょう。
さらに、駐在員の数が減り、現地スタッフの雇用が増えるにつれて、企業は立地先を選ぶ際に日本のインフラをあまり重視しなくなりました。純粋にビジネスの観点から、どの立地が企業にとって最も魅力的かを評価するようになったのです。以前はソフトな立地要因(非物質的な要因)が前面に出ていたが、今日ではハードな立地要因が前面に出ています。このため、企業の純粋な数は1990年代初めからほとんど変わっていないにもかかわらず、立地は明らかに年々停滞しています。デュッセルドルフ独自のインフラ的なセールスポイントは、今や文化的なレベルでより顕著になっています。イマーマン通りを中心に独自の文化が発展し、デュッセルドルフは一般的に東アジア文化でよく知られるようになりました。デュッセルドルフは海外に出る若い日本人にとっても魅力的です。このような文化的レベルは、食文化やポップカルチャーを中心とした新しい経済分野の発展も可能にしています。デュッセルドルフはこれからも日独関係にとって重要な役割を果たし続けるでしょう。