世界を襲った新型コロナウイルスの影響で、航空業界が深刻な打撃を受けてから1年半以上が経過しました。鶴のロゴマークでおなじみの日本航空株式会社(以下:JAL)は、今回のパンデミックのみならず、創業以来多くの苦境に直面してきました。これまでの歴史や経験を、危機的状況の中、ビジネスにどう活かしているのか、そして、ポストコロナ時代におけるJALの未来などについて、ドイツ・オランダ・東欧地区を総括するJALフランクフルト支店長の城宏和氏にお話を伺いました。
――まずは御社の歴史について教えてください。
城宏和:創業年は、今から70年前の1951年。第二次世界大戦の敗戦国であった日本やドイツでは、連合国によって、6年もの間、航空機の開発、製造、運航等が禁止されていました。そのような「空白の時代」が幕を閉じ、戦後の日本における初の民間航空会社としてJALの旧会社が設立されました。翌年には、国内線定期便の自主運航がスタート。1953年には日本航空株式会社法が制定され、政府主導の下、新会社が設立され、国際便の運航も可能になりました。国際線第一便として、今では日本人から絶大な人気を誇るハワイ州ホノルルを経由して、東京〜サンフランシスコを結ぶ路線が開設されました。全日本空輪株式会社(ANA)様もほぼ同時期である1952年に設立されました。弊社のミッションは、人々の国際移動を促進させ、日本経済の復興へとつなげることでした。高度経済成長や1964年の東京五輪による航空需要の増加に伴い、会社の業績は右肩上がりで、国際線も増便に。その結果、弊社は、1983年から1987年までの5年間にわたり、旅客数と貨物重量を合わせた国際線定期輸送実績で世界第1位になりました。
しかし、1985年8月12日、123便が御巣鷹の尾根に墜落するという事故が起き、ドイツ人2名を含む、多くの方々の尊い命が失われてしまいました。このあまりにも痛ましい悲劇は、現在の安全運航の原点であり、私たち社員はいつまでも忘れることができません。航空機メーカーによるハード面に加えて、弊社内でも整備プログラムの強化や航空安全推進委員会を設置するなど安全体制の強化を行い、ソフト面での再発防止対策が行われました。
その後、1991年の湾岸戦争、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2003年のSARSの流行やイラク戦争、2008年のリーマン・ショックなどを受けて、断続的に旅客需要の減少が続きました。さらには、原油価格の高騰で航空業界全体が大きな影響を受けました。また、1980年代後半には競合他社の出現があり、競争環境が徐々に厳しくなりました。私たちのミッションは、世界中のあらゆる場所に人や貨物を運ぶことで日本の経済発展に貢献することしたが、正直、採算性が疑問視された路線もありました。例えば、中近東地域へ向かう旅客便において、十分に座席が埋まることはほぼありませんでした。このように、不採算路線や110機以上保有したジャンボと呼ばれる大型航空機に偏った機材構成、そして、人員過剰などが影響し、次第に収益は圧迫されていきました。路線縮小、機材数削減、生産性向上などの構造改革を実施しましたが、最終的には、2010年1月に経営破綻しました。
――経営破綻後は、どのような改革が行われましたか?
城宏和:まず、100%減資、多額の債務免除、公的機関からの出資、そして社会の皆さまのご理解やご支援により再建のチャンスをいただいたことに改めてお礼を申し上げます。具体的には、不採算路線が見直され、国際線を約4割、国内線を約3割削減、機材数を3割削減という大幅な事業の縮小に伴い、グループ全体の3分の1にあたる約1万6000名の人員削減を実施しました。他方、京セラ株式会社の創業者である稲盛和夫氏が弊社の会長に就任されました。稲盛氏は、「JALフィロソフィ」と「アメーバ経営」を導入し、社員が売上の向上や経費の削減の方法を自ら考えるように導き、一人一人の意識を変革させました。その後、業績は急回復し、わずか2年8か月後にあたる2012年9月には、東京証券取引所第1部に再上場することができました。
JALフィロソフィとは、2部9章全40項目からなる行動指針で、全社員が手帳サイズの冊子を持っています。この冊子には、「人間として何が正しいかで判断する」などのように、京セラの経営哲学と通ずる項目もあれば、「一人ひとりがJAL」などのように、弊社独自の項目もあります。JALフィロソフィは、親が子どもに教える道徳のような内容が多く、易しい言葉遣いで説明されており、理解しやすい内容となっています。行動指針を理解するだけでなく、日常的に実践できるよう、社員は年数回の「フィロソフィ教育」と呼ばれる特別研修を受けています。役員には、月1回のリーダー勉強会を通して、経営哲学を学ぶ機会が設けられています。この他、各職場では独自の取組みが行われ、組織横断的に自主勉強会が開かれています。私は「採算意識を高める」という項目、そして、アメーバ経営において重要である、個人の意思や前向きな考え方、チームワークなどに関する項目が特に勉強になっています。私は常にコストはもちろん、新たな価値や利益を生むことも念頭に置くようにしています。稲盛氏には過去に何度かお会いしたことがあります。厳しい方ですが、挑戦する人の背中を押してくれるような方ですね。
日本国内では、以前は、勉強会の後で、参加者が缶ビールを飲みながら、JALフィロソフィについて語り合うことがありました。倒産する前は、客室乗務員(CA)や整備士、パイロット、営業など、各部署の社員は縦割り意識が強く、役員と社員にも距離がありましたが、これも再建を機に大きく変わりました。それだけでなく、一人一人のマインドセットも刷新され、民間企業としては極めて当たり前ですが、もう誰も助けてくれないという自覚と、自力でやり遂げなければならないという覚悟ができました。
――ご自身のキャリアについて教えてください。
城宏和:私は、1988年にJALに入社し、長年総務や人事などの管理業務を経験したのち、ドイツ赴任前には、安全推進部門で航空保安の責任者を務めていました。任期中には、2016年のブリュッセル空港など各地でテロ事件が続き、東京オリンピック・パラリンピックが控えていましたので、社内の保安体制の強化に専念していました。ドイツに赴任になったのは2019年5月ですが、ドイツ駐在は今回が初めてではありません。1994年から1997年までの約2年半にドイツに滞在し、ありがたいことに当時は語学研修制度があり、6か月間はバーデン=ヴュルテンベルク州のシュヴェービッシュ・ハル(Schwäbisch Hall)とノルトライン=ヴェストファーレン州にあるボン(Bonn)の語学学校にも通うことができました。
前回のドイツ駐在は、20年以上前の出来事であるにも関わらず、今もドイツ語を少し覚えていることには、正直自分でも驚いています。社内外に関わらず、ドイツの方とはドイツ語でコミュニケーションを取ることを心掛けており、当時の経験が非常に役立っています。
――ドイツに再び戻ることは希望されていたのですか?
城宏和:もちろん、いつかはまたドイツに駐在したいと思っていました。もともと語学が好きで、学生時代には4年間のディズニーランドのアルバイトを通して英語を覚えましたし、国際的な仕事に対する強い憧れがありました。しかし、既に50歳も過ぎていたこともあり、普通ならば再び海外駐在になる可能性は低いので、正直諦めていました。先ほど申し上げたように、直前は海外支店の業務には直接関係のない、安全推進部門にいましたので、日本国内での異動を想定していました。異動が決まったときは、家族も驚いていました。現在は、妻と二人の息子たちと一緒にドイツに住んでいます。家族にとって、海外生活は初めてですので、各々がいい経験をさせていただいています。
――御社のドイツにおける歴史を教えてください。
城宏和:1960年に、最初の事務所がハンブルクとフランクフルトに開設されました。翌年にはデュッセルドルフと続き、1962年以降フランクフルト発の日本行きの便がスタートし、現在に至るまで継続して運航しています。実は、1965年から1992年にかけてドイツ各地を出発点とする多くの路線が開設されましたが、後にフランクフルト線以外は運休となりました。
1965年に開設したハンブルクは、後にデュッセルドルフにより多くの日本人が住むようになったこと等が影響しで1988年に運休し、1985年に開設したデュッセルドルフに路線が移りましたが、ここも1991年に運休しました。1992年から1995年に運航したミュンヘンには、今となってはデュッセルドルフと首位を争うほど多くの日本人が暮らしていますが、当時は十分な採算が取れるほどの需要がありませんでした。また、昨年10月、ベルリンの郊外にベルリン・ブランデンブルク国際空港が新しくオープンしましたが、昔のシェーネフェルト空港の状態はあまり良くなく、また、ベルリンには日本企業が想定以上に進出することなく1991年11月の開設からわずか1年で運休しました。デュッセルドルフは、日本人こそ多いものの、フランクフルトの方が欧州各地への乗継ぎも便利でより多くの需要があったため運休となりましたが、昨年10月まで専用バスによるフランクフルトへの送迎サービスを実施していました。現在、唯一残っている路線は、フランクフルト〜成田線です。コロナ禍前、日独間をドイツの3空港から週28便運航するANA様に対して、私たちは1空港から週7便を運航していました。
現在、弊社はフランクフルトとデュッセルドルフにオフィスを構えており、ドイツには、約50名の社員が在籍しています。日本からの派遣員5名で、ほとんどが現地採用社員です。日本本社とは、主にフライト管理や運航ダイヤの調整、新型コロナウイルス関連に関して日々情報交換しています。また、日本総領事館などと連携しながら、毎日のように変わる新型コロナウイルスに関する規制関連の情報を正しく把握し、渡航を予定しているお客様に届けるよう努めています。
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――フランクフルト発の直航便の他に、JALを利用してもらえるために工夫している取り組みなどはありますか?
城宏和: フィンランドの航空会社「フィンエア」と連携することで、ドイツ各地からヘルシンキを経由して羽田空港へ向かう便を提供しています。この協業のおかげで、弊社がカバーできる範囲を、ミュンヘンやシュトゥットガルト、フランクフルト、デュッセルドルフ、ハノーバー、ベルリン、ハンブルクなどまでに大幅に拡大することができ、ルフトハンザ様やANA様と同様、日本への直行便がない都市の近くにお住いのお客様に日本行きの便に短時間で乗継げるルートを提供できるようになりました。以前は、新型コロナウイルスの影響で多くのフィンエアの便が運休していましたが、最近は路線によっては半分ぐらい戻ってきましたので、ぜひご利用いただきたいと思います。
また、新型コロナウイルスの影響で、欧州から関西行きの便が大幅に減少していますので、7月と8月にはロンドンから関西行きの便を毎週日曜日に運航します。ドイツからも多くのお客さまにご利用いただきたいと思います。
――パンデミックの前と後で、収益はどう変化しましたか?
城宏和:日本では、政府によるインバウンド政策として、東京五輪が開催される予定であった2020年までに4000万人のインバウンド客を呼び込むことを目標に掲げていました。実際に、2018年と2019年のインバウンド需要はそれぞれ約3100万人、約3200万人と好調でした。弊社では国際旅客による売上高は2019年度で4,762億円、国内旅客は5,146億円でした。また、この需要を積極的に取り込むべく、2020年上半期には、中長距離路線専門の格安航空ZIPAIR を就航させる計画もありました。
その矢先に、新型コロナウイルスが世界を襲い、2020年度の国際旅客の売上高は279億円と、前年比約94%落ち込みました。また、国内旅客の売上高も前年と比べて約67%落ち込みました。私どもは従来、フランクフルト発の便は毎日1便運航していましたが、現在は水曜日・金曜日・日曜日の週3回だけです。まさに経営破綻以来の危機に直面しています。
一方で、この状況にも関わらず営業収益が40%近く向上した事業が貨物事業「JALCARGO」です。私たちは、経営破綻をきっかけに、定期貨物便から撤退しており、旅客を乗せた便のみで事業を継続していました。そのため、弊社の供給スペースは旅客機の床下貨物室に限られていたのです。しかし、2019年に日米間で他社の貨物専用機を活用した貨物定期便を再開し、現在では日欧間でも他社の貨物専用機によるチャーター運航を実施しています。新型コロナウイルスの影響で、世界的に床下貨物室を活用した定期旅客便による輸送力が激減しましたが、海上輸送の滞貨などによる旺盛な需要を旅客機を活用した貨物専用便や他社の貨物専用機で積極的に摘み取っています。例えば、新型コロナウイルスのワクチンを旅客定期便が運航していないブリュッセル空港から日本に弊社の旅客機で輸送しています。
――JALフィロソフィは、危機的状況においてどう影響していますか?
城宏和:日本にはドイツのような時短勤務制度(Kurzarbeit)が存在しないので、社内教育を大幅に増やす一方、一部の社員を社内の他部署や社外へ派遣しています。現在は、約1,700名の社員を、他社のコールセンターや飲食店の宅配サービスなどのお客様との接点業務、地方自治体などへ派遣することで雇用維持に努めています。
逆に、ドイツでは、他社に派遣することが難しいので、現場の社員には時短勤務制度を取り入れていますし、マニュアルの整理、個人のスキルや資格の拡張などこれまで日々の仕事に追われて、なかなか手がつけられなかったことを行っています。また、コストカットも徹底しています。例えば、従来は天候にかかわらず、プラスチックラップや紐などで貨物をグルグル巻きにして防水対策をしていましたが、現在は、社員が天候を確認して、必要なときにだけ実施することで、資材費を節約しています。
しかし、経費の削減は限界がありますので、新規事業の開拓や提案による社員の積極的な参加も促しています。例えば、貨物販売部門は需要が好調なだけではなく、新規顧客を獲得することで収益性向上に繋げています。また、旅客販売部門もデュッセルドルフからフランクフルトへのバスの代わりに、今年の2月からハイヤーの割引サービスを開始し、少しずつですが、ご利用者が増えてきています。更に、オンラインセミナーを開催し、お客さまに日本入国に関する手続きなどの最新情報をご提供しています。他にも、地域貢献として、従来、直接学校を訪問して行っていた、デュッセルドルフやアムステルダムの日本人学校におけるマナー講座やフランクフルトなどの日本人学校への航空教室をオンラインで開講しました。
これらの取組みは、トップからの指示はありますが、その多くは社員がJALフィロソフィにある「自ら燃える」「果敢に挑戦する」などを行動に移し、自分自身で「今できることは何か」を考えて提案してくれたものです。素晴らしい社員に恵まれて、感謝しています。コロナ禍を乗り越えるために、過去の経験から活かせることはきっとあると思います。
――海外在住の日本人や外国人観光客や出張者が日本への渡航が今後より容易になる前提で、どのような準備を進めていますか?
城宏和:特に、ドイツ人や日本人は衛生について関心が高いと思いますので、安心して乗っていただけるように、様々な感染症対策を徹底しており、その結果、英国の航空会社評価機関であるSKYTRAXの「Covid-19 Safety Rating」では最高評価の5スターを、米国の「APEX Health Safety Powered by SimpliFlyingt」でも最高評価の「Diamond」を獲得しました。具体的には、国内の空港における非接触及び自動化サポート、全航空機の客室内の抗ウイルス・抗菌コーティングの実施、万一、感染した場合の費用の補償や相談窓口を提供する「JALコロナカバー」などが挙げられます。
また、世界の感染状況が落ち着き次第、まずはレジャー需要が戻って来ると想定していますので、弊社としては3つのLCCを有効に活用することを考えています。春秋航空日本が中国方面の近距離国際線、ジェットスター・ジャパンが国内線、そしてZIPAIRがアメリカ方面などの中長距離国際線を担います。ZIPAIRの運航範囲は、LCCには珍しく日本からホノルルやバンコクという中長距離に及びますので、個人的には、いずれ欧州への運航を期待しています。
――来年頃には、航空需要は回復していると予想しますか?
城宏和:国際航空運送協会(IATA)は、世界の航空需要が2019年レベルに回復するのは2023年と予測しています。具体的にいつになるかはわかりませんが、私も日本を訪れる観光客や出張者の需要は、コロナ禍収束後、必ず戻ると考えています。
一方で、ここ数年、世界的に旅客輸送量が増加し、航空市場の競争は激しくなる一方で、「飛び恥」をきっかけに、環境に大きな負荷を掛ける航空運送事業に対する社会からの目が一層厳しくなりました。欧州では短距離区間の航空路線を撤廃するべきではないかという議論が出てきています。CO2排出削減を目指した航空機技術や燃料の見直しは、航空会社全体の課題であり、弊社も、2050年までにCO2排出量実質ゼロを目指す目標を掲げています。私どもはA350などの省燃費機材への更新を積極的に進め、運航の工夫により、燃料の使用量自体を減らす取り組みを行っています。また、将来的には水素や電動などの技術を使った航空機を導入します。さらには、化石燃料に代わる持続可能な代替燃料の使用量を増やしていきます。このような環境のみならず、SGDsの各目標達成のための具体的な行動を通じて、社会からご理解を得らえるように努めて参ります。
今年は、日独交流160周年ですが、来年は、弊社が日独間に就航して60周年を迎えます。まだ厳しい状況で、計画を立てることはなかなか難しいことですが、過去の事故や経営破たんにもかかわらず、日頃から弊社を支えてくださっているお客様、地方自治体、そして関係者の皆様に何か恩返しができればと考えております。そのためにも、まずは1日も早く、ドイツや欧州と日本間で以前のように皆さまが自由に往来できる日が来ることを切に願っています。