J-BIGの発行人であり編集長であるビョルン・アイヒシュテットが、日本のビジネス界に関するあらゆることに深い関心を抱いていることは、J-BIGの愛読者ならご存知でしょう。しかし、彼の日本への憧れが、仕事上でもプライベートにまで入り込み、はるか昔にまでさかのぼることは、あまり知られていないかもしれません。今号では、一転して取材する側が取材される側となります。そんな特別号のゲストであるビョルン・アイヒシュテットをインタビューするのは、日本経済新聞社の林英樹ドイツ特派員です。この対話は、日本への憧れから始まり、彼がマネージングパートナーとして共同経営するコミュニケーションエージェンシー、ストーリーメーカーの日本事業、そしてJ-BIGの誕生についてまで幅広く語っています。
―― まず、ストーリーメーカーについて、現在の事業内容と会社の創業の経緯について教えてください。
ビョルン・アイヒシュテット: ストーリーメーカーは、ストーリー、トピック開発、PR、デジタルコミュニケーション、コンテンツ制作を専門とするあらゆるコミュニケーションを担う企業です。当社は、技術やビジネスにフォーカスするドイツ人ジャーナリスト、ハイドラン・ハウグによって2001年に設立されました。 1990年代、彼女がジャーナリストとして取材していた起業家たちより、どうにかドイツでのPR活動を手助けしてもらえないかと相談を受けていたのです。ジャーナリストの目線から見た企業のプレスリリースや新製品に関する情報発信に「何か」足りないと感じていたことは確かでした。その「何か」の正体は「ストーリー」でした。多くのプレスリリースには、製品の特徴や売上高に関する情報が記載されていたものの、企業全体に関する洞察はほとんどなかったのです。それと同時に、シリコンバレーやドイツの一流の起業家たちと話をすると、ほとんどの場合、興味深いストーリーがあることを彼女は知っていたのです。会社の存在意義や大胆な未来ビジョンを外部に発信することなど珍しかったのです。そこで彼女は、企業が伝えるべき最も重要なものはストーリーであり、そのお手伝いをしたいと決意したのです。それがストーリーメーカー誕生の瞬間でした。
設立当初は、ハイドランのジャーナリストとしてのスキルに基づく純粋なPR会社でした。ジャーナリストと対話し、記者会見を開催するなどの事業内容です。しかし、時が経つにつれ、ストーリーメーカーはより広範なコミュニケーションエージェンシーへと成長していきました。ブログコンテンツを開始し、積極的にSNSを使うようになりました。また、企業ストーリーを描く動画や他のマルチメディアコンテンツの制作も開始しました。社内、もしくは社外向けの情報誌、プレゼンテーションなど、企業のストーリーを正しく伝えるためであれば、どういう形式であろうと取り入れました。
―― では、これまでどのような企業に焦点を当ててきたのでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット: 当社は90年代後半に構想され、2001年に設立されました。いわゆる「ニューエコノミー」と呼ばれる時代でした。つまり、多くの新しいインターネット企業が台頭してきた時代に、ストーリーメーカーはスタートを切ったのです。ですから、当初のお客様はドイツ、もしくは米国のIT企業がほとんどでした。しかし、2000年代の初めに「ドット・コム・バブル」が崩壊し、当社のお客様の多くにも影響が及びました。また、競業避止義務により、顧客ベースを拡大することがますます難しくなりました。たとえば、CRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)が得意な顧客がいたとしても、事実上競合となるその分野の別の顧客を獲得することができなかったのです。そこで当社は、他のテクノロジー関連の企業にも焦点を当て、範囲を広げることにしたのです。ストーリーメーカーは、大学の街としても知られるバーデン=ヴュルテンベルク州のテュービンゲンで設立されました。ここには多くの機械メーカーやプラントメーカーが拠点を構えており、初めは、自動車産業への進出とともに、様々なメーカー企業への拡大を試みました。今では、「テクノロジー」に該当するほぼすべての分野をカバーしています。その中でも最も得意とし、経験を積んだ業界は、IT、エンジニアリング、機械工学、家電製品、自動車、自動化、ロボット工学です。
新しい産業に進出することで、当社のサービスの幅もさらに広がりました。わたしたちの原点は、企業のストーリーを伝えることです。コミュニケーションのために、テキストやグラフィックデザイン、写真から動画制作など、テーマ作りからフォーマットの確定まで、顧客と共同で制作を進めています。ストーリーと適切なテーマを見つけるという点では、私の原点である、ジャーナリズムが今でも活かされていると思います。それと同時に、時と共に一種のメディア制作会社としても発展を遂げました。ただ一つ例外として広告分野が挙げられます。この分野に関しては、ごくまれにしか案件を受けておらず、当社のコアビジネスには入りません。単に広告スペースを買うのでなく、私たちは常にストーリーから出発することに重点を置き、魅力的なコンテンツを作るようクライアントを説得するよう努めています。
2007年には、東アジアに進出し、活動を本格化させました。同年、私たちは中国北京に新しい支店を開設し、ドイツのお客様が初めて中国で実施したプロジェクトをサポートしました。このプロジェクトをきっかけに、中国事業部は大きな成功を収め、現在も同僚であるテレサ・スチュワートが統括しています。
―― ご自身の会社での役割と、ストーリーメーカーでの経歴についても教えてください。
ビョルン・アイヒシュテット: 現在、私は会社の共同経営者であり、三人の経営パートナーの1人として共同経営を行っています。実は、私のキャリアはストーリーメーカーの初の研修生としてスタートしました。テュービンゲン大学を卒業して働き始めたとき、会社は設立からまだ数週間しか経っていませんでした。確か4番目か5番目の社員だったと思います。入社して比較的早く成長し、数年後には副社長になり、その後、わずかな株を引き継ぎ、後に共同経営責任者となり、最終的には会社の株主となりました。
―― 現在、ストーリーメーカーの日本デスクの責任者でもありますよね。どのような経緯で日本にフォーカスすることになったのですか?
ビョルン・アイヒシュテット: プライベートではずっと日本に興味があったのです。初めて日本のアニメをテレビで見たのは4歳くらいのときで、当時は『アルプスの少女ハイジ』や『みつばちマーヤの冒険』が日本と関係があるとは知りもしませんでした。もっと重要なのは、私は第一世代の任天堂キッズだったということです。1987年に任天堂のファミコンコンソールの最初のヨーロッパ版を手に入れました。当時12歳だった私は、学校で初めてニンテンドーエンターテインメントシステムを手に入れたのです。『スーパーマリオ』と『ゼルダの伝説』の大ファンになりました。ビデオゲームに特化したドイツ初の雑誌『パワープレイ』を通して、私はこれらの素晴らしいゲームがすべて日本から来たものであることを知りました。任天堂、セガ、PCエンジン、すべて日本のものだったのです。そのとき初めて、日本がテクノロジーとイノベーションの国であることを認識しました。
大学時代には邦画にもとても興味を持つようになりました。きっかけは、『リング』や『呪怨』のような日本のホラー映画でした。2001年より、今では世界最大の日本映画祭となったフランクフルトのニッポンコネクション映画祭のおかげで、何年もの間、何百本もの邦画を観てきたのです。私はこの映画祭が誕生して二年目から訪れています。これらの映画は、日本の文化や社会について多くのことを教えてくれましたし、私の日本に対する熱意に大きく貢献してくれました。
―― 当時は、大学や仕事を通じて、日本とのビジネス上のつながりはなかったんですか?
ビョルン・アイヒシュテット: いいえ、私は神経生物学を専攻していましたし、日本への執着は純粋に私生活の中だけのものでした。当時は日本に行ったことなかったのです。2000年代は円高だったので、日本への旅費はかなり高く、研修生として初めてフルタイムの仕事を始めたばかりの若い学生には高すぎました。初めて日本の地を踏んだのは2010年、結婚式の後でした。妻も日本に興味を持っていたので、私たちは盛大な結婚式を開催せず、その代わりにお金を日本での3週間の新婚旅行に投資することにしたのです。正直に言いますと、この旅行が私の人生を変えたのです。そこでのすべてが私を奮い立たせました。そしてわずか9ヵ月後に再び日本を旅しました。それから2、3年後、私たちはおそらく5回も日本をプライベートで訪れています。
同時に、ストーリーメーカーでの仕事、つまりテクノロジーと日本のつながりがますます見えてきたのです。旅を重ねるごとに、素晴らしい製品を提供しながらも欧州では知名度の低い日本の技術系企業が存在することに気づきました。私はビジネスやテクノロジーのメディアをよく読みますが、日本企業についての記事を目にすることはほとんどありませんでした。そこで、日本への個人的な関心と仕事とをどのように結びつけることができるかを考え始めたのです。私のこの日本好きが、ドイツや欧州にいる日本企業の知名度を上げるのに役立つのではないか?2012年、その疑問に挑むことにしたのです。日本企業にアプローチし、彼らの広報業務を手伝うことを提案したのです。
――なぜドイツや欧州では、多くの日本企業が注目されない傾向にあるとお考えですか?
ビョルン・アイヒシュテット: これにはいくつかの理由がありますが、常にそうだったわけではないということを言及しなければなりません。1970年代から1980年代にかけて、日本企業は欧米でより目立つ存在となり、欧米が日本を少し怖がり始めたほどでした。私のアーカイブに1980年代初頭の『SPIEGEL』誌の古い号がありますが、その一面には日本車が載っています。その車はまるで読者を威嚇するように嘲笑っているように見えます。日本の自動車メーカーはドイツの自動車産業を破壊するだろうと示唆されているのです。そして同じ頃、ソニーは米国のコロンビアなど既存のエンターテインメント企業を買収していました。こうしたことが、日本による買収に対する大規模な抵抗につながり、各企業が広報活動を縮小する原因となったのです。その後、韓国や中国といった国々の重要性が高まり、欧州のメディアはこれらのアジア諸国に注目し、日本は後景に消えていきました。第三に、1990年代初頭に日本のバブルが崩壊した後、多くの日本企業は再び日本市場に焦点を当てました。そして最後になりますが、日本の文化や習慣も関係していると思います。私の経験上、日本人は自慢を好まないという風に感じました。彼らは製品や品質を高めることによって潜在顧客を獲得したいのであり、声高に叫ぶことに抵抗感を覚えるのです。
1990年代以降、海外メディアとのコミュニケーションが停滞しているのはそのためではないでしょうか。このことは、2014年にJETROと共同でドイツのジャーナリストを対象に実施した調査でも確認できます。彼らに知っている日本企業を挙げてもらったのです。挙げられた名前はすべて、1980年代より存続している企業でした。ソフトバンクや楽天のような重要な新進気鋭の企業を認識している人はいなかったようです。
――では、それをどう変えようと思ったのでしょうか。
ビョルン・アイヒシュテット: 当初、私は信じられないほど世間知らずでした。この状況について日本企業やその意思決定者とお話したかったのですが、日本で働いている知り合いはいませんでした。日独のネットワークもなければ、この分野での経験もなかったのです。そして日本語も話せません。この状態だと、とんでもない道を歩もうとしているときっと皆様も思っていたかもしれません。しかし、私はとにかくできるところから人々に話しかけ始めました。知人に日本企業にコネがないか尋ねたりしました。展示会に足を運び、日本企業のブースをひたすらに話しかけました。機会があるごとに、ドイツの日本人コミュニティと連絡を取ろうとしました。そして、その数年前に、私たちのお客様であるガラス製造企業SCHOTTと中国向けのプロジェクトを遂行した後、同社を日本のPR会社に紹介したことを思い出しました。その代理店に急遽連絡したところ、ミュンヘン現地の担当者に連絡を取ってくれました。これが、私たちの日本ビジネス界への最初の重要な繋がりでした。それ以降、私たち常に連絡を取り合っていした。彼に私の計画をお話ししましたが、正直なところ、彼はとても懐疑的でした。日本企業は海外でPRすることにほとんど興味がない、とのことでした。そして、従来のやり方ではいけないということには同意してくれたものの、彼らの考えを変えるのは非常に難しいということを忠告してくれました。しかし、私は落胆せず、定期的に会い続けたのです。
2012年末、彼は私に、ついに私が手がけられるプロジェクトがあるかもしれないと告げました。TOTOは当時、ドイツの衛生陶器メーカーであるVilleroy & Bochと協力しており、フランクフルトで開催されるISH見本市で記者会見を開きたいと考えていたのです。これがストーリーメーカーの最初の日本関連プロジェクトとなりました。そして同年、パナソニックとの電話部門のプロジェクトを相次いで承ったのです。
――ドイツで初めて日本企業と仕事をしたときの経験について教えてください。特にどんなことに気づかれましたか?
ビョルン・アイヒシュテット: どちらのプロジェクトも成功しましたが、未開拓の可能性がたくさんあることも実感しました。現地法人と日本本社とのコミュニケーションは非常に難しく、日本側をもっと理解するためにはもっと多くの経験が必要だと感じていました。そこで、2013年7月に初めて日本出張を実現しました。主な目的は、現地の人々と話し、できるだけ多くのことを学ぶことでした。日本の見本市がどのように機能しているのか、PRの仕方はどのように違うのか、欧州市場に対する見方などを理解したかったのです。初めての出張で実現したミーティングはほんの一握りだけで、実際に学んだことはほとんどなかったのですが、それでも役に立ちました。それ以来、私は3カ月に一度、1週間は日本に行くことを決め、コロナ禍が始まるまではこのスケジュールを厳密に守りました。そして、昨年の5月にやっとの思いでまた日本に渡ることができ、それ以来5回は日本を訪れました。
――素晴らしい成功談ですね。では、克服しなければならなかった課題などはありましたか?
ビョルン・アイヒシュテット: もちろんです。これまで40社近くの日本企業と仕事をし、常時活動する顧客も増えています。しかし、ここまで来るには長い時間がかかりましたし、その道のりは必ずしも平坦ではありませんでした。あるハードルがはっきりしたのは、日本で最初の日系顧客を獲得したときでした。それは2014年のことで、庭木の輸出業者でした。起業家は英語が堪能でしたが、従業員のほとんどは日本語しか話せなかったのです。多くの誤解と問題がありました。だから、これが全く成功しなかった最初のプロジェクトであったことは驚くにはあたらなかったのです。大失敗だったとさえ思っています。しかし、このことが私に重要な気付きをもたらしたのです。少なくとも、日本語を話せる人が必要だったのです。そうして2015年、当社は最初の日本人社員を迎えました。これも成功のための重要な土台となりました。
さらに付け加えなければならないのは、ストーリーメーカーがドイツ、米国、英国、フランスの企業とのビジネスや、成長中の中国ビジネスも手がけていたからこそ、日本でのビジネス構築が可能だったということです。ご存知のように、日本企業との仕事には多くの人間関係と信頼構築が必要で、それには時間がかかります。もし当社の創業者の理解や定期的に利益をもたらしてくれる他のお客様のサポートがなければ、今日の強力な日本事業はなかったでしょう。
――現在のストーリーメーカーにおいて、日本企業とのビジネスはどのような役割を担っているのでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット: 多少変動はありますが、ここ2、3年は日本での事業が総売上高の15%から20%を占めています。日本事業は成長を続けており、さらに重要なのは、ここしばらくの間、非常に安定しているということです。コロナ禍の最初の年、他の多くの地域で売上が減少していたときでさえ、日本事業はほぼ横ばいで推移していました。これは、日本人の継続性に対する考え方に大きく関係していると思います。この間、日本企業はほとんど従業員を解雇しなかったですし、代理店やその他のサービス業者も辞めなかったのです。日本企業との関係を築くには長い時間がかかるかもしれないが、ひとたび関係が築かれれば、その関係は強固なものとなり、困難な時代を乗り切ることができます。私にとっては非常に示唆に富んだ、前向きな経験でした。
――ご自身の視点からして、ドイツと日本企業の仕事における最大の違いは何ですか?
ビョルン・アイヒシュテット: 私の経験では、ドイツ人は常に効率的であることを望みます。これは、ある目標を達成するためにできるだけ労力をかけないということでもあるのです。また、効率性が非常に高く評価されるため、自分を表現したり、コミュニケーションを簡潔かつ効率的に行うこと、つまり相手の時間を無駄にしないことも尊重されることです。一方、日本人はできるだけ包括的でありたいと考えます。彼らにとっては、細部まで考慮し、効率よりも徹底することが重要なのです。これが誤解を生むこともあります。日本企業とドイツ企業がミーティングを企画したとき、私はしばしばこのような経験をした。どちらもこの会議が自分たちにとっていかに重要かを示したい。日本側にとっては、議論される可能性のあるあらゆる面をカバーするために10人を派遣することを意味するのです。ドイツ側にとっては、極端な場合、上司一人しか派遣しないということです。これは、その問題が経営陣にとって重要であり、決定を下す権限のある人物を派遣したことを示すものであります。双方に善意はあるが、理想的な対話の状況ではないことは確かです。
それが顕著に表れるもうひとつの分野が意思決定です。ドイツ企業の場合、迅速に意思決定し、必要に応じて調整することが理想的だと考えられています。日本企業は、事前にあらゆる角度から検討するため、意思決定に時間がかかるのです。しかし、ひとたびプロジェクトが始まれば、誰もが何が起こるかを100%理解しています。ドイツ人から見ると、日本企業は非常に仕事が遅く、貴重な時間を無駄にしているという印象を受けることが多いのです。しかし、実際にはプロジェクトに対するアプローチの違いなのだと理解するのに時間がかかりました。また、プロジェクト開始には時間がかかるかもしれないが、プロジェクトが進むにつれて物事がスムーズに進むことがほとんどでした。時が経つにつれて、私はこの仕事のスタイルを本当に高く評価するようになりました。
例えば、イノベーションについても同様です。日本では、シリコンバレーの斬新なイノベーションスタイルを採用すべきかどうかについて、多くの議論がなされています。私の観察からしますと、日本人のイノベーションに対するアプローチは異なっているのです。ゼロからまったく新しいものを開発するのではなく、継続的な改善に常に重点を置いています。米国人がスピードを重視するのに対して、日本のイノベーターは細部にこだわり、完全に満足して初めて製品を市場に送り出そうとします。ドイツはたいていその中間です。ここでも多くの人が、日本はイノベーションに関して遅いと思っていますが、私はそうは思いません。
――こうした違いは、両国のコミュニケーションに影響を与えているのでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット: はい、確実に社内と社外の両方で影響が出ています。例えば、日本の製品発売に対するアプローチは、国内ではうまく機能しています。なぜなら、人々は日本製品の品質を信頼し、時の感覚にはあまり関心がないからです。それよりも、一度買った製品が完璧に機能することの方が重要なのです。しかし、日本以外の多くの市場では、トレンドが重視されます。そして時には、日本製品が発売される頃にはトレンドが一巡していることもあるのです。日本企業の完璧主義は、ここでも不利になってしまうのです。このような明らかな遅さは、伝統的なPRにおいても問題となることも。日本企業と繋がろうとする(ドイツの)ジャーナリストからは、数日以内にトップマネジメントの誰かから声明やインタビューが届くことを期待されている、という話をよく耳にします。これはドイツのメディアやジャーナリストの世界では標準スピードなのですが、日本企業にとってはほとんど実現不可能な期待なのです。その結果、貴重なコミュニケーションの機会を逃してしまっています。
また、同じ言葉が時として異なる期待や意味を表すことがあり、それがしばしば誤解を生むことにも気づきました。例えば、「品質」や「時間厳守」についてです。ドイツ鉄道における「時間厳守」の枠には5分以内の遅延はなんとでもありません。この「時間厳守」という言葉のゆるい解釈は、日本では決して通用しません。5分の遅れは全国に向けて記者会見を開く理由にもなり得るのです!つまり、同じ言葉が使われていますが、その言葉の意味は時には全く違ったりもするのです。
ドイツ企業が初めて日本企業と接触するとき、このような現象が何度も起きます。あるドイツ企業が、非常に特殊なオートメーション・ソリューションを必要としていて、いろいろな企業に問い合わせをしたとします。米国の企業に依頼すると、その企業は非常に素早く「自社の製品で何でもできます」、「問題ありません」と答える。ドイツの企業に問い合わせると「簡単に調べてから連絡します」という返事が返ってくるかもしれません。おそらく1週間以内に返事が返ってくるでしょう。しかし、日本企業はこう言います「製品と生産ラインに関する詳しい情報を送っていただけないでしょうか。その後、部署に確認をしました上、再度ご連絡させていただきます。」。半年後、彼らはドイツ企業に、そのソリューションがどのように実現可能かについての詳細な分析結果を返送します。しかし、ドイツ企業は、日本企業からもう何の連絡もないことを確信し、別のサプライヤーを選ぶことにしました。さらに、当初の担当者はもうドイツ企業に勤めていないため、コンタクトはもはや確立していないのです。このようなことが何度も繰り返されます。コミュニケーション文化全体が大きく異なっているのです。
――ではご自身の経験を元に、このような違いがドイツと日本の企業間の協力を困難にしているのでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット: 必ずしもそうではありませんが、その違いを正しく解釈し、対処するためには、その違いを認識しておくことが重要です。私が仕事を始めた頃は、異文化間コミュニケーションについて多く語られておりましたが、それはただ単に何かを正当化しているとしか思っていませんでした。グローバル化した世界で、文化の背景知識などのトレーニングは必要ないと思っていたからです。
しかし、考えは改めました。実際に、日本企業と仕事をしたいのであれば、日本のビジネス文化を理解することは絶対に必要だと肌で感じました。そうでなければ、予算編成のプロセスから会議の文化に至るまで、あらゆることに戸惑ったり、相手が奇妙で不合理な振る舞いをしていると勘違いをしてしまうからです。お互いを理解することは、相手を尊重することであり、関係を築く上で極めて重要です。その一方で、日本のこの企業文化を受け入れる器がすでにある方々に関しては、その文化に忠実であり続ける傾向をしばしばお見受けしました。今までJ-BIGのインタビューを通じてお話した方の多くが、自社においての従業員の忠誠心が異常に高いと述べています。これはおそらく偶然ではないでしょう。ドイツ人社員が日本企業で25年以上働くことは珍しくありません。ドイツ企業では、勤続年数が5年といえばすでに長いといえるでしょう。
―― ストーリーメーカーが発行しているJ-BIGについても伺いたいと思います。なぜ、デジタルのビジネス誌を発行しようと思ったのですか?
ビョルン・アイヒシュテット: J-BIGの設立を決めた理由はいくつかあります。最初にこのアイデアが浮かんだのは、2020年春、ドイツでコロナ禍による最初のロックダウンがあったときでした。顧客の多くが共同プロジェクトを一時的に停止しました。私は在宅勤務をしながら窓の外を眺め、毎日同じリスが家の前の木に登っているのを眺めていました。正直、退屈だったのです。そして、久しぶりに時間を持て余していました。そこで日本のビジネスについて考え始めたのです。私たちはすでに多くの日本企業と仕事をし、NTTデータ、東レ、マツダなど、長くお付き合いしているお客様もいました。そして、これらのお客様の多くをビジネス、日刊紙、業界メディアに取り上げることに成功していました。しかし、これらの記事は常に特定のトピックや時事問題にリンクしていたのです。企業全体をシンプルに紹介し、その完全なストーリーを伝える枠組みを見つけるのはとても難しかったのです。
また、日本企業がインタビューの依頼などに応じるのをためらうことにも気づいていました。これは営業目的ではなく、ただ単に私が執筆中の記事のためにインプットが必要だった場合にも同様の反応を示していたのです。私は定期的にドイツの産業メディアやビジネスメディアに日本のテクノロジーやイノベーションに関する記事を書いています。ただし、どんな形であれ、私の目的は最終的には同じでした:それは日本企業のストーリーを伝えることでした。ただ、そのための適切なタッチポイントがなかったのです。そこで、「自分でタッチポイントを作ればいいじゃないか」と考えたのです。2020年6月、オフィスに戻り、日本事業担当の大浦詩織カミラにそのアイデアを相談したところ、ほどなくして彼女は「J-BIG」という名前を提案してくれました。「J-BIG」は「Japan Business in Germany」の略で、「ドイツにおける日本ビジネス」を意味します。そしてついに2020年7月、J-BIGは正式に誕生しました。
――J-BIGというブランドができた後、どのようにして企業にJ-BIGとの協力を仰いだのでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット: 当初は、すでに知り合いの企業に声をかけました。質の高いビジネス情報誌のアイデアを提示し、ドイツや欧州事業の責任者へのインタビューを依頼しました。コンセプトはおおむね好評でしたが、当然のことながら多くの広報担当者は、少なくとも数号が発行されるまでは経営陣にアプローチしたがりませんでした。誰も始めようとしなければ、J-BIGが日の目を見ることはないと悩んでいたところ、三社のマーケティングおよび広報担当者たちが立ち上がってくれたのです。パナソニック、富士通、三菱電機でした。
――彼らはすでにクライアントだったのですか?
ビョルン・アイヒシュテット: パナソニックインダストリーとはいくつかプロジェクトを実施してきましたし、三菱電機は年間契約をしているお客様です。富士通はストーリーメーカーのお客様ではありませんが、前広報部長とは良い関係を築いていました。正直、この三社の協力がなければJ-BIGは存在しなかったと言っても過言ではありません。パナソニックインダストリーとの創刊号は2020年11月に発行され、おかげさまで今回でもう40号となります!
――日本の有名大手企業だけでなく、これまで意外な企業とも対談してきましたよね。私の印象に特に残っているのは、アダルトグッズメーカーであるTENGAと行ったインタビューです。現在はどのようにインタビュー対象を選定しているのですか?
ビョルン・アイヒシュテット: 基本的な基準はとてもシンプルです。ビジネスの要素があること。そして、そのビジネスの一部がドイツ国内で行われること。それだけです。また、ストーリーに多様性と興奮をもたらすよう心がけています。同じような企業のドイツ事業の責任者に毎回インタビュー話をしたところで、すぐに単調になってしまいます。J-BIGは長期的なプロジェクトとして生まれました。読者の皆様にこの雑誌を末永く楽しんでいただくためには、常に新鮮であり続ける必要があります。そして、時には思いがけないことが、そのための方法なのです。
TENGAの場合、デュッセルドルフを散歩していたとき、インマーマン通りのドアに貼ってあった名前を見てピンときました。この会社のことは、ある日本人のビジネス関係者から聞いていました。彼は少し前に、この会社のことは誰でも知っているが、メディアではあまり話題にならないと話していたのです。なのですぐにTENGAに連絡を取りました。社長は興味を示してくれましたが、私たちが普段取り上げている「真面目な」企業の部類に入っていけるかどうかについて懸念を示していました。彼は、TENGAが私たちの読者にショックを与えるかもしれないと心配をしていたのです。そこで私はこう尋ねました「貴社は日本出身ですか」と。すると彼は「はい」と答えました。続けて「貴社はビジネスをされているんですよね?」と尋ね、当然「はい」と答えました。「それでドイツにも支社を構えているのであれば、J-BIGにぴったりですよ」こう私が述べたところ、快諾してくれたのです。
もっと広い意味でビジネスの世界を見ていたいのです。ひとつのインスピレーションとして、ドイツのビジネス誌『Brand Eins』、特に『Der Mensch』というシリーズが挙げられます。ビジネスとしての個人をテーマにしたものが多かったのです。例えば、ケニアの美容師についての記事などです。記事は、世界各国の普通の人々がどのように生計を立てているのか、どのような経費や固定費がかかっているのか、どのようなビジネスモデルが機能しているのかに焦点を当てていました。個人的にはこの雑誌のおかげで、経済を非常に広い視野で見ることができるようになりました。J-BIGの「ドイツにおける日本ビジネス」というトピックも、そのようなアプローチにしたかったのです。
これまで、ドイツの漫画出版社から漫画のライセンスビジネスから、日本企業のビジネス拠点として有名なデュッセルドルフの歴史について博士論文を書いた人、ドイツで大成功を収めた日本出身のヨーデル歌手にもインタビューをしました。いずれも一般的な「ビジネスマン」のイメージとは異なるかもしれませんが、ビジネスや経済の話題であることに変わりはありません。もちろん、プロのヨーデル歌手にインタビューしたときは、彼の大ヒット曲について話したわけではありません。音楽雑誌ではないからです。どうやって収入を得ているのか、雇用契約はどうなっているのか、そういったキャリアについて話したのです。
――ではこうしたちょっと変わったテーマを取り上げたときのJ-BIGの読者の反応はいかがでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット:読者が予想していないことをやるには常にリスクが伴います。読者はそれを嫌がるかもしれませんし、自分たちのビジネス経験とかけ離れたトピックだと感じるかもしれません。しかし、これまで、このようなトピックに対して否定的なフィードバックを受けたことはありません。しかし、TENGA号では興味深い展開がありました。私たちはしばしば、読者にインタビューした企業の商品を抽選する企画をしています。TENGA号でも「TENGAロボ」のプレゼント企画がありました。インタビュー記事はとても好評でしたが、残念ながら、抽選に応募するメールを送ってきた人は一人もいませんでした。多くの人が、記事を読むのは面白いと感じていたのですが、面白いと思ったことを公にしたくなかったのだと思います。
―― J-BIGはストーリーメーカーの日本事業にどのような影響を与えましたか?また、今後どのように発展していくとお考えですか?
ビョルン・アイヒシュテット: J-BIGは、「通常のビジネス 」が本当に不可能だったコロナ禍の困難な時期に作られました。ストーリーメーカーの通常のビジネスが再び回復してきた今、J-BIGが私たちの視界を変えたと実感しています。また、ストーリーメーカーとJ-BIGは違った活動だと考えていますが、もちろん雑誌を通じて多くの新しい人脈を得ることもできました。同時に、当社はDJWやバイエルン独日協会などの団体でも非常に活発に活動を行っており、彼らもJ-BIGでの活動をサポートしてくれています。
今のところ、仕事の多くは、新しいコネクションを作り、コミュニティを構築することに集中していたと思います。コロナ禍ではこういったコミュニティの側面においてとても苦しみましたし、こうしたネットワークの一部をゼロから構築する必要も必要でした。同時に、人工知能やその他の新しいテクノロジーの出現など、多くの市場において大きな変化を遂げていたのも事実です。私はそこに多くのチャンスが潜んでいると感じています。ドイツ人は変化を疑う傾向にあります。しかし、何か新しいことが起こるということは、常に新しいコネクションを作り、新しいコミュニケーション・フォームを作り出さなければならないことを意味します。
――日本企業は急速な変化に慣れていない、ということはすでにおっしゃいましたね。このような広範囲に及ぶ変革に適応できないのではないかという懸念はないのでしょうか?
ビョルン・アイヒシュテット:これまでの経験上、ほとんどの日本企業は常に適応力を発揮し、成功していました。ただ、そのやり方が独自であり、時にはややゆっくりしたペースでやっていたと感じます。しかし、少なくとも日本の大企業は、必要な資本を持っているため、自分のペースで進める余裕があります。日本企業は銀行に預けている資金という点では、世界で最も豊かな企業のひとつでもあります。これは、日本企業が資金に対して非常に保守的であるという事実にも起因しています。たとえ大儲けした年でも、過剰なボーナスは出さず、利益を再投資します。そのため、調整に時間がかかっても、来年倒産することはないのです。この強固な財務基盤が、適切な解決策を見出す時間を与えてくれるのです。
現在の発展が日本企業に有利に働くと私は信じています。長期的な思考に伴うスローペース、問題に対する総合的なアプローチ、一番になることとは対照的な品質重視などです。現在の環境状況を鑑みると、多くの顧客は長持ちする頑丈な製品を切望しており、日本企業は常にこの点で優れています。一般的に、持続可能性をめぐるコミュニケーションは、日本企業にとっても、ストーリーメーカーにとっても、大きなチャンスとなる分野だと思います。多くの日本のお客様が、欧州市場に向けてより持続可能な行動をとる必要があると感じ、私たちにアプローチしてきます。しかし、多くの場合、彼らは以前から非常に持続可能な行動をとっていたことがわかります。
同時に、特に先進工業国では熟練労働者の不足により、オートメーション・ソリューションの必要性が高まります。そういった点においても、日本企業には多くの可能性があると思います。そしてそれは同時、私たちも彼らと協力できる大きな可能性があるということを意味します。私たちは、日本企業がコミュニケーションを図り、新たな人脈を築き、自分たちのストーリーを伝える手助けをすることができます。そのため、私たちの日本事業も、日本のビジネス界全体にとっても、将来についてはとても前向きです。