バンクハウス・メッツラーのCEOであり、日独経済界を代表するゲアハルト・ヴィースホイ氏が、J-BIG編集部のインタビュー取材に応じてくれました。彼は日独産業協会の理事長やニッポンコネクション映画祭のサポーター、さらには首相代表団への同行など、日独の経済・文化関係の発展に多大な貢献をされています。本インタビューでは、日本との関わりの始まり、メッツラー銀行と日本の結びつき、そして地政学的・人口学的変化がもたらすチャンスと課題についてお話しいただきました。
――ヴィースホイさんは、日独産業協会の理事長をはじめ、ベルリン日独センターやニッポンコネクション映画祭の支援活動、さらには首相訪日に同行されるなど、日独経済界で広くご活躍されています。日本との深い関わりを持つに至ったきっかけや背景を教えていただけますか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:私の日本との関わりは、計画的というよりも、長い時間をかけて一歩一歩築かれたものです。私は1962年生まれで、日本の自動車産業が台頭し始め、日本がドイツで注目されるようになった時代に育ちました。1970年代には日本の存在感が増し、1980年代には経済大国としてその地位を確立していきました。その発展に感銘を受け、18歳の時に英国での語学研修中、偶然将来の妻となる日本人女性と出会い、1981年に初めて日本を訪れる機会を得ました。
その後、1986年にカール・デュイスベルク・ゲゼルシャフト主催の語学研修とインターンシップ・プログラムに参加し、半年間日本で過ごしました。翌1987年にはコメルツ銀行で投資銀行の研修生プログラムを始め、ニューヨーク、ロンドン、東京で資本市場の活気に触れました。その後、1991年に東京に赴任し、日本でコメルツ銀行の資産運用部門を立ち上げ、1999年まで同部門を率いました。
当時、日本経済はバブル崩壊後の停滞期に入りましたが、1990年の金融市場の規制緩和により、資産運用を主力とする海外企業にとって、むしろ新たな好機が生まれました。むしろ新たな好機が生まれる結果となりました。日本国内の株式市場や債券市場が逼迫する中、投資の多くが海外へと流れ、私たちはその需要に応える形でサービスを提供することができたのです。
―― コメルツ銀行の東京支店ではどのような役割を担っていましたか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:東京支店は、銀行業務、証券部門、そして私が立ち上げた「コメルツ・インターナショナル・キャピタル・マネジメント」という資産運用部門の三つの柱で構成されていました。資産運用部門では、主に年金基金、保険会社、企業、創業者といった機関投資家向けのサービスを提供していました。当時、日本から欧州への投資を行う日本人投資家が大半を占めていました。
その後、2001年にメッツラー銀行に移籍しました。フリードリッヒ・フォン・メッツラー氏の日本に対する深い関心が、私がメッツラーに加わる決め手となりました。同年4月に準備を開始し、5月には日本子会社を設立。短期間で事業基盤を整え、顧客を獲得しました。
――当時、約8年間に渡って築かれたネットワークが大きな支えとなったのではないでしょうか。
ゲアハルト・ヴィースホイ:実はネットワークはそれ以前から存在していました。私は確かに1991年から1999年まで日本にいましたが、1988年にはすでにロンドンで日本のオフショアファンドを担当していました。そのため、日本の主要な投資家、保険会社、企業と既に接点を持っていました。
―― 18歳の時に日本人の奥さまと出会われたことが日本との縁の始まりだったそうですが、その後、日本に強い関心を持つようになったのはどういった理由からでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:きっかけは「経済」そのものです。第二次世界大戦後、日本は改革を重ね、通信技術やウォークマン、自動車、そしてソニーのようなテクノロジー企業などの革新的な技術で世界を魅了しました。こうした成功に触れ、日本の成長に強い興味を抱きました。
また、メッツラー銀行には長い歴史があり、信頼性や堅実さを重視する企業文化が、日本市場での成功に繋がると確信しました。1868年の明治維新をきっかけに、日本に関する包括的な情報が欧州にもたらされました。その流れの中で、モリッツ・フォン・メッツラーが父親の勧めで日本を訪問し、初期のフィージビリティスタディを準備しました。それが2001年に子会社を設立する際の基盤となりました。
私たちの日本進出は主にアセットマネジメントが中心でしたが、M&A分野でも日本とドイツの間で多くの取引が進められています。メッツラーはドイツの中堅企業、未上場企業、ファミリービジネスにアクセスできる点が大きな強みです。
――ドイツの伝統的な企業が日本企業に買収されたというニュースを目にした場合、その取引に御行が関与している可能性は高いということでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:当行はプロジェクトの規模に関わらず、幅広く依頼を受けています。例えば、従業員10万人を抱える空調メーカーであるダイキンによる油圧機器会社の買収に関する助言や、大同生命がニュルンベルガー社へ投資する際のサポートを提供しました。また、オーストリアのFrauentag Gruppeが大型発電所用の真空フィルターを製造する企業をイビデンに売却する際には、売却に関する助言を行いました。このように、当行は多岐にわたる分野で金融取引に積極的に取り組んでいます。
私たちのM&Aチームは、ドイツで最も歴史あるチームの一つで、その起源は1970年代にさかのぼります。当時、フリードリッヒとクリストフ・フォン・メッツラーが米国での経験を活かし、ドイツでM&Aビジネスを立ち上げたのが始まりです。彼らは「Deutschland AG」の解体を見据え、現在の強固でプロフェッショナルなネットワークの基盤を築きました。
―― 日本企業がドイツ企業を買収する場合、御行のような銀行はどのような役割を果たすのでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:私たちは、結婚式の仲人のような役割を担っています。すなわち、日独の企業間で最適なパートナーを引き合わせる「仲人」です。両国の企業が目指す将来の戦略や目標を深く理解し、「A社とB社は相性が良い」といった提案を具体的に行い、最初の話し合いをサポートします。
その後、企業価値の評価、デューデリジェンス、契約書のレビューなど、実務的なプロセスを進めます。買収や売却においては、最終決定を下す前に綿密な調査を行います。また、企業が本業に集中するために子会社を売却したい場合の支援も頻繁に行っています。
―― 御行のビジネスモデルについて詳しく教えてください。
ゲアハルト・ヴィースホイ:M&Aビジネスでは、通常、取引額に応じた一度限りのフィーをいただきます。しかし、メッツラーの特徴は、取引完了後もサポートを続ける点です。M&Aを成功に導くには、異なるアイデアやプロセスを統合する作業が不可欠だからです。
統合プロセスを支援するため、当行は積極的に話し合いに参加し、経営陣との定期的な調整を通じて意思決定をサポートします。さらに、運営チームを支援しながら、他のプロバイダーとの差別化を図る専門知識を提供している点が私たちの強みです。
―― 日本関連のビジネスは、御行のビジネス全体においてどのような立ち位置でしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:M&A事業は私たちの主要な取引分野であり、案件の規模によって変動が大きい分野です。大型案件もあれば中型案件もありますが、信頼できるパイプラインの維持が極めて重要です。一方で、アセットマネジメント事業も並行して展開しており、米国子会社を通じてロサンゼルスやシアトルの不動産事業を管理しています。これにより、保険会社や年金基金からの委託を受け、安定した手数料収入を確保しています。
ドイツと日本の経済構造は非常に似ており、特に機械工学、化学、自動車といった分野での共通点が顕著です。そのため、日本は当行にとって戦略的に非常に重要な市場です。これらの分野での買収や売却では、日本企業が関与するケースが多く、私たちは中小企業からDAX企業まで、日本における豊富なネットワークを活用しています。この結果、日本関連のビジネスは米国の不動産事業と同様、当行全体の事業基盤に大きく貢献しています。
――日本支社は2001年に設立されましたが、日本企業は欧州への多額の投資を行っています。これはメッツラーにとって、また個人としてどのような展開をもたらしましたか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:日本はバブル経済の後処理に長い時間を費やしました。本格的に経済の勢いが回復したのは2010年頃で、福島原発事故を契機とした多様化の動きがこれを後押ししました。この頃から日本では国際的なサプライチェーン強化への注力が高まりました。さらに、2019年のEPA自由貿易協定の締結がこの動きを一層加速させました。
中国の政治リスクやウクライナ紛争といった地政学的な影響もあり、日本企業は欧米市場への投資を一段と強めています。多くの日本企業が非常に堅実な財務基盤を持ち、魅力的な海外市場への進出を加速させています。
――メディアは中国の投資家に注目しがちですが、日本のビジネスは比較的静かに進められているように見えます。この背景について、特に人口動態や閉鎖的な市場という観点でどのように考えますか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:人口動態は日本にとって大きな課題です。日本の人口は2015年にピークを迎え、その後、毎年70万~80万人規模で減少が続いています。この状況は、国内市場を主軸とする企業に深刻な影響を及ぼしています。そのため、多くの日本企業が成長が期待できる海外市場に注目するようになりました。
――日本が最近勢いを増していると主張する報道を見かけることがありますが、日本は実際既にここ20年間、他国を上回る投資を続けています。高い基盤からさらに成長している点が特徴です。この点についてはいかがでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ: 日本は債務ブレーキやECB(欧州中央銀行)に縛られず、独自の中央銀行を持っています。このため、対外債務を5%未満に抑えつつ、柔軟な政策運営が可能です。債務ブレーキやEU基準を遵守しなければならない私たちに比べ、日本ははるかに柔軟で自律的な立場にあります。
B2Cビジネスでは米国と中国が優位を占めていますが、B2B分野では日独両国に大きな可能性があります。日本の強力な製造業とドイツの機械工学の強みを活かし、膨大なデータを活用した価値あるデータ・プールの構築が期待されています。
――中国の電気自動車を詳しく見てみると、ほとんどの部品がドイツ製か日本製であることに気づきます。これは、ドイツと日本のハードウェア技術が非常に高い水準にあることを示していると言えるのではないでしょうか。
ゲアハルト・ヴィースホイ: はい、その通りです。例えば半導体の分野では、ナノフィルムを東レ社が製造しています。もしくは、風力タービンの分野においても同様の状況です。日本がなければ、多くの機械は動作しません。日本は非常に優れた部品を供給しており、それらの技術がなければ機械そのものが成り立たないのです。
――これまで、ヴィースホイさんのビジネスに関するお話を伺いましたが、日独コミュニティでのボランティア活動にも積極的に取り組まれていますね。J-BIGの読者の中には、その活動を通じてヴィースホイさんのお名前をご存じの方も多いと思います。このような活動を始めたきっかけは何でしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:活動の原動力には、常に経済的な側面がありました。私たちの取り組みは、企業としての活動と調和しなければなりません。日本とメッツラーの関係は非常に相性が良く、互いに意味を成し、補完し合うものです。ここで重要なのは、単なる歴史的な背景だけでなく、私たちの内面的な姿勢です。近年、「ESG」(環境・社会・ガバナンス)が注目されていますが、特に「S」(社会)の領域は、私たちが350年以上取り組んできた分野です。たとえば、バーバラ・フォン・メッツラーはフランクフルトのシュテーデル博物館の改修を支援し、メッツラーはゼンケンベルク財団の設立メンバーとしてその創設に貢献しました。このように、何世紀にもわたり市民活動の最前線に立ち、しばしば先駆的な役割を果たしてきたのです。
もちろん、日本でのビジネスを通じて利益を生み出し、それを成長につなげることは重要な使命です。ただ、それにとどまらず、たとえばフランクフルトで開催されるニッポンコネクション映画祭の支援など、地域社会への貢献にも積極的に取り組んでいます。
――それがフランクフルトと日本をつなぐわけですね。
ゲアハルト・ヴィースホイ:また、私たちは応用美術館(MaK)を支援しています。この美術館には、根付や印籠の最大級のコレクションが所蔵されており、これは19世紀にヴィルヘルム・メッツラーが寄贈したものです。現在も、特に日本に関連する展覧会の支援に注力しています。
――ニッポンコネクションは、まさに19世紀から続く活動の現代版と言えますね。他にも取り組まれている活動があれば教えてください。
ゲアハルト・ヴィースホイ:その通りです。私たちの取り組みは単なる財政的支援にとどまりません。必要に応じて積極的に協力し、社員や取締役会も活動に参加しています。2011年からは、ボランティアとして日独産業協会(DJW)の会長を務めています。それ以前には、会員や理事として活動していました。ベルリン独日センター(JDZB)については、外務省の依頼を受けて関わるようになりました。DJWが民間セクター主導の取り組みである一方、JDZBは国営機関です。私たちはJDZBに専門知識や献身的な支援を提供しており、この協力は非常に実り多いものです。
また、ゲオルク・シュパイヤー・ハウスの財団理事長も務めています。この施設は140年以上にわたりがん研究を行っており、一見銀行業務とは無関係に見えますが、基礎研究を通じて多くの企業と接点を持つことができます。このように善意や有益性を結びつけることが、私たちの基本的なアプローチです。
――日独産業協会(DJW)での役割についてお聞きします。ネットワークの活用が大きなポイントとなっているのでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:そうですね。DJWにおいて、私のような人間が組織を広く認知させ、日本とドイツのビジネス界や政治界に門戸を開くことは非常に重要な役割だと考えています。個人的な接触を通じて、日本の多くの賛助会員を獲得することに成功しました。また、首相や閣僚の訪問時には、DJWを代表してアドバイザーとして活動する機会も得ています。たとえば、2014年には安倍首相がドイツを訪問されましたし、2015年には私たちが首相とともに日本を訪れ、日独関係を大きく前進させました。さらに、メルケル首相の再訪日とその後の協議が最終的にEPAの締結へとつながり、2019年に東京で批准されました。これは両国にとって非常に重要な一歩でした。
また、オラフ・ショルツ首相が初の外遊先に日本を選び、その直後に政府間協議が行われたことも、強いメッセージを発信する出来事でした。このような協力に参加し、貴重な意見を提供できることは、大きな喜びであり、私たちDJWの活動の中核を成すものです。
――御行は350年の歴史の中で、政治、ビジネス、文化が密接に結びついていることを学んできたように感じます。
ゲアハルト・ヴィースホイ:まさにその通りです。「メッツラン」という動詞があるのですが、「メッツラー」は単なる銀行ではなく、家族を象徴し、人々を結びつけるオープン・ドア・ポリシーを体現しています。東京で行われた350周年記念式典でも、ビジネス関係者だけでなく、文化界や政界の方々もお招きしました。この取り組みは、人と人を結びつけるという大局的な視点に基づいています。
――1860年に始まったことが1890年に影響を与えたという事実は、歴史を振り返ることで初めて理解できるものであり、事前に予測するのは難しいでしょう。一面的な考え方しかできない人にとっては、このような多層的な次元や視点を受け入れることは難しいかもしれません。
ゲアハルト・ヴィースホイ:私たちは他の銀行と同様に、年に一度、貸借対照表と損益計算書を公表しています。しかし、非上場企業である当行には、長期的な視点で考え、行動する自由があります。また、文化とビジネスは相反するものではなく、むしろ相互に補完し合う関係にあると確信しています。
――日本にゆかりのある方なら、特に日本の魅力を強く感じるのではないでしょうか。和食や伝統文化の魅力はもちろんのこと、日本がビジネス拠点として持つ魅力も大きな要素です。また、日本国内ではあまり意識されていないかもしれませんが、長年にわたり日本は非常に洗練された国家ブランディングを展開してきたと感じています。これまでの日本でのご経験や、ドイツでのキャリアを踏まえたうえで、ドイツが日本から学べる点についてはどのようにお考えでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:日本のサービスについてお話ししたいと思います。私の妻は茶道を嗜んでおり、私も客としてお茶をいただく機会があります。その際、「珈琲は体を目覚めさせ、抹茶は心を目覚めさせる」と感じることが多いです。私自身、毎日抹茶を淹れる習慣があり、この時間をセレモニーのように大切にしています。
日本の生産性がドイツより低いという指摘は確かに事実ですが、日本人に対して生産性向上をアドバイスするつもりはありません。なぜなら、日本には非常に高い「おもてなし」があり、これが日本の大きな強みだからです。たしかに、日本では人手を多く必要とする作業や、レストランでのおもてなし文化がドイツと異なるため、合理化が難しい場面も多いです。しかし、この「時間をかける」文化こそが日本らしさを形作る重要な要素であり、単純に効率化すべきものではないと思います。このサービスマインドは、日本が持つ貴重な「資産」として高く評価されるべきものです。時間をかけて丁寧に対応する姿勢こそが、日本の魅力を際立たせると信じています。
――23年前にメッツラーに入社されて以来、多くの成果を挙げてこられました。2023年からはCEOとして全事業の責任者を務めていらっしゃいますが、新しい立場で日本関連の事業に何か変化はありましたか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:はい、変化を感じています。新たな業務も増えています。プライベート・バンキングはほぼすべてドイツ国内向けですが、他の3つの事業分野は日本と密接に関わっています。また、定期的に日本からのお客様をお迎えしており、年に4回ほど東京、大阪、京都、名古屋を訪問しています。日本は当行にとって非常に重要な市場であり、必要な時間とリソースを引き続き投資していきます。さらに、当行にはジャパンデスクを設置し、東京にも強力なチームを配置しています。これらの体制が、日本市場での当行の活動を力強く支えています。
――現在62歳ですが、中には既に引退を考える人もいる年齢です。それでも、どちらかというと日本的な考え方をお持ちなのでしょうか?
ゲアハルト・ヴィースホイ:この点については、当行全体がむしろ日本的な考え方をしていると言えるかもしれません。当行は非上場企業であるため定年制がなく、退職時期は銀行や個々の経営陣のニーズに応じて柔軟に決められます。実際、70歳で退職した行員もいます。65歳や66歳だからといって専門知識が失われるわけではなく、むしろ経験豊富な人材が退職することで重要な知見を失うリスクがあります。このような時代には、熟練した労働力の喪失は生産性の低下にもつながりかねません。
当行の経営委員会や全体の方針は個人の姿勢にも大きく左右されます。私自身はこれからも長期的な視点で、日本事業を運営していくつもりです。