山川和子氏は夫とともに、ドイツ・フェイラー社のシュニール製品を日本に紹介し、大きな成功を収めました。1970年代初頭に小さな輸入事業として始めたビジネスは、やがて全国的なブームを巻き起こしました。フェイラーの豪華で色鮮やかなシュニール織は、多くの日本女性にとって憧れのアイテムとなったのです。今回、J-BIG編集部では山川氏にインタビューを行い、起業家としての歩みや、2007年に住友商事へ会社を売却するまでの成長の軌跡を伺いました。さらに、成功への感謝を込めて、フェイラーの織物工場があるドイツ・ホーエンベルク市に数10億円を投資した経緯についても詳しくお話を聞くことができました。
―― フェイラーとの最初の出会いについて聞かせてください。
山川和子:実はフェイラーの商品と出会ったのはドイツではありませんでした。私が初めてヨーロッパを訪れたのは1959年、17歳の時のことです。当時のソビエト連邦・モスクワで3年間学んだ後、パリに移住し、高級免税店「LITZ」でビジネスを学びました。そこで、後に夫となるアーロンを知ったのです。1968年、夫との週末旅行中、ベルギーのクノックにあるブティックで、くちばしに赤いバラをくわえた金色の鳳凰がデザインされたスカーフを見つけたのです。その柔らかい素材と美しいデザインに一目惚れしました。店内には多くの白い繊維製品が並んでいましたが、その黒いエキゾチックなデザインが特別に目を引いたのです。ビジネスのことなど全く考えず、純粋に気に入って購入しました。それがフェイラー製品だとは、その時は知る由もありませんでした。
―― 日本でのビジネスの可能性に気づいたのはいつでしょうか?
山川和子:日本に帰国して、東京でヨーロッパのファッション商品の輸入商社「Monrive(モンリーブ)」を設立した後のことです。社名は私の姓「山川」に由来しています。
ある日、三越百貨店のバイヤーが訪問されました。とても暑い夏の日で、当時はまだ冷房がありませんでした。冷たい果物とベルギーで購入したフェイラーの織物を「おしぼり」として出したところ、バイヤーの方がすぐにシュニール織の素晴らしさについてコメントされたのです。その何気ない反応が、この製品にビジネスの可能性があるのではないかというヒントを与えてくれました。

―― そのアイデアを実際のビジネスに発展させるために、最初に取った行動は?
山川和子:1970年、フェイラー社のシュニール織を日本で展開できないかと考えましたが、2年前に購入したその商品をどこで買ったか忘れてしまっていました。夫も覚えていませんでしたが、幸い彼はすべての領収書を保管する習慣がありました。ついに見つけた黄ばんだベルギーのブティックの領収書を頼りに、そこに電報を送って製品の出所を尋ねたのです。
その結果、ドイツのフィヒテル山地・ホーエンベルクにある、当時ドイツ最後(現在はヨーロッパ最後)のシュニール織工場を経営していたフェイラー社の製品であることが判明しました。
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夫がドイツのフェイラー社に手紙を送り、生地のサンプルを依頼すると、創業者のエルンスト氏が日本まで送ってくれました。これらのサンプルを持って、北海道から鹿児島まで全国の百貨店やブティックを回り、取り扱いの可能性を探りました。しかし、用途が理解されず、「色が鮮やかすぎる」との理由で、どこも取り扱いを断られました。約2年間、ビジネスアイデアは実を結ばず、一時的に断念することになったのです。
―― 最終的にどのようにして日本市場での突破口を開いたのでしょうか?
山川和子:ある日、夫が「家族や友人に実際に使ってもらって、反応を確認してみよう」と提案しました。サンプルを配布してしばらくすると、非常にポジティブなフィードバックが返ってきたのです。皆、生地の素晴らしさを絶賛し、色褪せしない点や吸水性の良さを評価してくれました。単なるおしゃれなハンドタオルとしてだけでなく、様々な用途で使用していただき、素材とデザインの両方を高く評価してもらいました。
母はその素材でショッピングバッグを作ったのですが、周囲の反応は非常に好意的でした。軽くて色鮮やかな点が特に気に入られました。これで再度チャンスがあるかもしれないと思い、百貨店のバイヤーに、お客様の反応を見るためにバッグをショーウィンドウに展示してもらえないかと相談しました。展示したその日にすぐ売れ、百貨店からさらに3個の注文をいただいたのです。当時、工場も機械もなかったため、すべての商品を自宅で手作りしていました。追加の3個もすぐに売れ、注文は徐々に増え始めました。最初は5個、次に20個、そして100個と。ビジネスは日に日に成長していきました。

―― フェイラー製品と並行して、元々の輸入ビジネスも継続されていたのですか?
山川和子:両方を同時に効果的に管理することは不可能だと判断し、夫と相談の上、ファッション輸入ビジネスを終了し、フェイラービジネスに完全に集中するという大きな決断をしました。フェイラー社とのB2B関係を維持し、日本市場向けの製品を生産するためのシュニール織を供給してもらったのです。
ある時期から、フェイラーの小さなタオルを女性がハンドバッグに入れて持ち歩くおしゃれなハンドタオルとして使用するキャンペーンを始めました。このプロモーションを通じて、ハンドタオルは日本全国の女性にとって必須のファッションアイテムとなったのです。
最初の注文はわずか10枚でした。10年後、ビジネスが軌道に乗った時には1万枚、そして10万枚をフェイラー社に注文するまでになりました。注文したタオルは固定サイズで、30センチから始まり、大きいものは50×100センチから最大150×250センチでした。
最終的に、自社で商品を生産できるよう生地のロール購入が可能かを打診しました。これが1990年代初頭、私たちのビジネスが本格的に急成長を始めた時期でした。インテリア、ファッション、さらにはスポーツアイテムなど、あらゆる種類の商品を製造し始めたのです。
フェイラー社の規模は、今と比べてかなり小さかったので、生産能力が限られており、十分な材料供給に苦労していました。私はドイツに赴き、工場拡張への投資について交渉しました。販売先、製品、数量を正確に示した詳細な5年間のビジネスプランを作成し、これによりフェイラー社は生産施設の拡張を決断してくれました。それまで主に手作りだった生地を機械生産に移行するため、多大な努力を払いました。同じペースでビジネスを成長させていたことで、パートナーシップが非常に強固になったのです。

―― フェイラーのビジネス全体における日本市場の割合はどの程度でしたか?
山川和子:私たちはフェイラーのビジネスの大部分を占めていました。フェイラー社はドイツ国内でベビー用品を販売し、スイスやその他のヨーロッパ諸国の一部高級ブティックや香水店に製品を卸していましたが、事業拡大に伴い、彼らの生産はほぼ完全に日本市場向けとなったのです。現在でも、フェイラーは日本では有名ブランドですが、本国ドイツではそれほど知られていません。
―― 日本での事業拡大後、貴社はどの程度の規模まで成長されたのでしょうか?
山川和子:約200名規模の会社に成長し、営業スタッフが全国140カ所の販売拠点を巡回していました。生産については、千葉に生産施設を設立し、マネージャーを任命しました。そこでは協力会社を合わせれば約1,000名が働いていました。東京の生産能力では不十分だったため、和歌山や兵庫など他の多くの県にも事業を拡大し、ビジネスは大幅な成長を続けました。
―― ビジネス成功の鍵となった要因は何だったとお考えですか?
山川和子:まず第一に、明確なビジョンを持っていたことです。私たちは品質に非常に重点を置きました。当時、多くの企業がコスト削減のために生産拠点を中国に移していましたが、私にとっては、そのために品質が犠牲になることは容認できませんでした。可能な限り高い生産基準を達成するために多大な努力を注いだのです。
もう一つの重要な要因は、私たちが常に自分たちをチームとして捉えていたことです。フェイラー社とのチーム、そして従業員とのチーム。私たちは統一された存在として機能していました。一部に問題が生じれば、全体に影響が及びます。私たちは共に成長することに専念していました。利益を生み出せば、チームの他の部分も恩恵を受けるべきだと考えていました。従業員と成功を共有したのです。日本では通常、従業員は年2回の賞与を受け取りますが、私たちは全従業員がプラス3カ月分のボーナスを受け取れるようにしました。このビジョンのおかげで、かなりの利益を生み出すことができました。
品川地区では、「収益性」に関しては、上から数えてトップ3に入ると評判になっていました。私たちのビジネスは1995年に猛スピードで発展しはじめ、それ以来成長を続けており、現在でもビジネスは好調です。2007年に住友商事に会社を売却しました。ビジネスがまだ好調な時期に売却を決めたことに多くの人が驚きました。しかし、私が70歳に近づき、夫は私より26歳年上で病気になっていたため、もうビジネスに全力を注ぐことができませんでした。この状況で従業員に負担をかけたくありませんでした。
銀行に売却計画を相談したところ、わずか1週間で資生堂、花王、三井、三菱など主要企業から30件のオファーがあり、全社が私たちのビジネス買収に熱心でした。

―― 住友商事を買い手として選んだ決め手は何でしたか?
山川和子:住友商事は最初に接触してきた会社で、ビジネス買収への真摯な関心を示してくれました。特に私たちの無形資産に魅力を感じていました。企業が売却される際、有形・無形両方の資産が評価されます。2000年頃までは、建物、金融資産、設備といった有形資産により重点が置かれていました。現在では、建物や車両、その他物理的資産がリースされることが多いため、企業は必ずしも多くの有形資産を必要とせず、市場での専門知識などの無形資産がより重要な役割を果たしています。
私たちの会社は強力な無形資産を持っていました。全国に広範な市場プレゼンスを確立し、将来的にも相当な可能性を示していました。また、フェイラー社や金融機関との長年にわたる信頼関係を築いていました。人的資源については、仕事に情熱を持ち、包括的な製品知識を備えた高度なスキルを持つ営業のプロフェッショナルを雇用していました。例えば、未婚や離婚した多くの若い母親を雇用しました。彼女たちを支援することができ、彼女たちは私たちのビジネス成功に大きく貢献してくれたのです。私たちは専門知識、創造性、独創性を備えた透明な経営を維持していました。そして明確なビジョンがありました。私たちは単に製品を生産・販売するだけでなく、アートを創造していたのです。これらの無形資産、つまり私たちの核となる能力により、競合他社が私たちの地位に挑戦できないほど強固な基盤を築いていました。
M&Aでは複数企業と同時交渉することは現実的ではないため、住友商事への売却決断は迅速に行いました。私たちの側からはわずか3名の取締役、相手側から30名の代表者で会議を開き、すべての事項が話し合われました。わずか8カ月で取引は完了し、住友商事が所有権を引き継ぎました。

―― 会社売却後、ドイツのフェイラー社との関係はどのように発展しましたか?
山川和子:長年の協働を通じて、私たちは非常に強い絆を築きました。夫が初めて仕事のために私と一緒に日本に来た時、彼はすでに50歳で、パリでのすべてを捨ててきました。日本語も話せず、人脈もなく、私たちの経済的余裕も限られていました。本当にゼロからのスタートでした。フェイラー社は見ず知らずの私たちを受け入れてくれました。サンプルを提供し、結果を示すために1年の時間をくれたのです。夫はオーナーのエルンスト・フェイラー氏と親密な友情を築きました。
私と夫は、フェイラー社から受けた支援に対して常に大きな感謝の気持ちを抱いており、何らかの意味ある形で恩返しをしたいという思いについてよく話し合っていました。2011年、夫がすでに寝たきりだった時、ドイツ・フェイラー社の副社長ダグマー・シュベート氏からフェイラー90周年記念の招待を受けました。彼女は私と会いたがっていました。私はこれを、ビジネス構築の機会を与えてくれた場所に最終的に貢献する適切なタイミングだと認識しました。夫が生きている間にホーエンベルクへの貢献を見届けてもらいたかったのです。この意図をダグマー氏と共有した時、彼女は本当に驚き、ホーエンベルクの市長と私たちの計画について連絡を取るなど、組織面で手助けしてくれました。
最初、市長は控えめな要望を持っていました。公園用のベンチ数脚や追加の駐車スペースといったものです。しかし、私はより実質的な規模で感謝の気持ちを表現したいと考えていました。
―― ホーエンベルク市への恩返しの方法をどのように決められたのでしょうか?
山川和子:2012年、町はスポーツホールに全市民を集めて、ホーエンベルクの課題について話し合いました。コミュニティの主な問題は雇用機会の不足で、若者が仕事を求めて他の場所に出て行ってしまうことでした。
この町は歴史的に磁器産業で有名でしたが、ローゼンタールのような一部著名メーカーを除き、ほとんどが中国などの低コスト生産地との競争で破綻していました。仕事の見通しがわずかで若い世代が去っていくと、高齢化した住民は自分たちで生計を立てなければならず、ホーエンベルクには人口が約2,000人しか残っていませんでした。フェイラー社が唯一の重要な雇用主となっていました。
そこで、過疎化の一途をたどるこの町に若者たちが戻り、年老いた両親のことを心配することなく仕事や生活に頑張れるよう、高齢者介護施設の建設に投資することを決めました。私自身、夫の世話をしてきた経験から関わる課題を理解し、このような施設の必要性を認識していました。プロジェクトが正式に始まる前に、「Be Together/ 共にある」というモットーにまとめた、ホーエンベルク町のためのビジョンを掲げることにしました。若者と高齢者、病気の人と健康な人が一緒にいることを想像していました。

―― 高齢者介護施設の実現について、もう少し詳しく教えてください。
山川和子:市長は、介護施設に対する私のビジョンを実現できる建設会社を見つけるためのコンペティションを開催するアイデアを出しました。ホーエンベルク地域の複数企業が3Dプロトタイプを作成し、町の公園で市民に提示されました。コミュニティは好みのデザインに投票し、ホーエンベルク老人ホームの最終的な外観を決定しました。
優勝した建築家は日本のデザインについて研究し、多くの木材要素を取り入れました。屋外エリアにも相当な注意を払い、伝統的な京都の庭園を連想させる特徴を含めました。デザインには施設の周りに植えられた75本の桜の木が含まれていました。
最も困難だったのは適切な土地の取得でした。町の中心部近くに6,000平方メートルの土地を所有していた農家と2年間交渉し、最終的に物件の半分を購入しました。その後、集中治療室、デイケア施設、コミュニティセンターを建設しました。コミュニティセンターは若者と高齢者の両方が集まる場所として機能し、イベントやパフォーマンスを主催しています。本質的には、コミュニティ全体のための空間であり、「共にある」というビジョンを具現化しています。2017年に高齢者介護施設「Yamakawa Seniorenhaus」がオープンしました。

―― その後、ホーエンベルク市のために追加プロジェクトに取り組まれましたか?
山川和子:2番目のプロジェクトは「アクティブパーク」でした。老人ホーム近くの残りの土地に建設されたスポーツ施設です。この小規模プロジェクトは2023年に完成しました。このパークは若者や子供たちを町の中心部に引き寄せ、異なる世代を一緒に連れてくるという私たちのビジョンの実現を助けています。
3番目のプロジェクトのアイデアは、スポーツパークのオープニングに出席した時に生まれました。ドイツでバリアフリーアパートを建設する傾向が高まっていることを知りました。多くの古い住宅が大きすぎ、アクセスに問題のある階段があるためです。ホーエンベルクでバリアフリーアパート複合施設に適した利用可能な土地について尋ねました。
城からわずか10分の美しい12,000平方メートルの区画を見せてもらい、すぐにその可能性を認識しました。オープニングセレモニー中のその日のうちに土地を購入し、バリアフリーアパートプロジェクトに取り組むことを約束しました。すでに24のアパートのデザインと18人の見込み居住者がいます。プロジェクトは2年以内に完成予定です。
―― 日本からこれらのプロジェクトをどのように管理し、ホーエンベルクのドイツチームとどのようにコミュニケーションを取っていますか?
山川和子:ホーエンベルクの市政リーダーシップに大きな信頼を置き、プロジェクトの実施を任せています。最初、市長はプロジェクト財団の議長を務めるよう私に求めましたが、ドイツ語を話せず、ほとんどの時間を日本で過ごすため、その地位を辞退し、資金面での支援に専念することにしました。フェイラー社とは約40年間協力してきたため、深い相互信頼を築いています。
主に英語、必要ならそれをAIで自動翻訳したドイツ語ででコミュニケーションを取り、介護施設の入居者と時間を過ごす際には、言葉を超えたコミュニケーションにも頼っています。幸運なことに、ドイツでのプロジェクトをサポートしてくれるダグマー・シュヴェット氏がいます。市長もコミュニティ開発に深くコミットしており、ミュンヘン市との生産的な関係を確立し、私たちの取り組みに約1億円を貢献してくれました。
―― ホーエンベルクへの投資で町全体を新しく建設されたと言えますが、合計でどれくらい寄付されたのでしょうか?
山川和子:これらすべてのプロジェクトを通じて、私は特に高齢者をサポートするモデルコミュニティを作ることを構想していました。高齢者介護の様々な段階に対応する包括的なシステムを開発しています。まだ自立した生活が可能な方のためのバリアフリーアパート、毎日数時間の見守りを提供するデイケアセンター、そして集中的なケアを必要とする方のための老人ホームです。
このような形でドイツに貢献する機会を得られたことに本当に感謝しています。特に、人口密度の高い地域での土地価格が非常に高いため、日本では同様のプロジェクトを実施することは困難でしょう。一方、日本の農村部は孤立しており、都市部から遠く離れていることが多いのです。ドイツの環境は、このようなモデルコミュニティを開発するための理想的な機会を提供しています。
合計で、ホーエンベルクに老人ホームや公園、アパートの建設費に見合う金額を寄付しました。最初、市はベンチを数脚だけ要求していたので、私の多額の投資規模に驚かれました。
私はフェイラー社との40年間のパートナーシップを心から楽しみました。私のビジネスビジョンは常に「日常生活の中のアート」でした。寄付したお金は、このビジネスを構築することから得られた喜びに比べると取るに足らないものです。ホーエンベルクの未来に投資することで、その喜びの一部を還元したいと思っています。

―― 住友商事に会社を売却した後、ビジネスに何らかの関わりを持ち続けていますか?
山川和子:いまだに、フェイラーに関するセミナーなどを続けています。住友商事が会社を買収した際、新しい社長がビジネスを理解するのを手伝うために2年間留まるよう依頼されました。彼らは日常生活にアートをもたらすことに焦点を当てた創造的な企業というよりも、手数料ビジネスに焦点を当てたコングロマリットだからです。しかし、1つの会社に2人のリーダーがいることは困難をもたらします。
私はフェイラーブランドについてのビデオを作成し、その歴史と生産プロセスを記録するという別のアプローチを開発しました。日本全国を旅してこのビデオを顧客に見せ、フェイラーの物語についての講演を行いました。これらのプロモーション活動を通じて、ブランド認知度を高め、顧客はフェイラー製品により強い愛着を持つようになりました。現在でも、時々既存顧客のためにこれらの講演を行うよう招待されています。
住友商事に買収してからビジネスはかなり変化しました。これは時代も変わっているため自然なことです。インターネットが主要な販売チャネルになりましたが、私の在任中は、顧客が商品を実際に見て触れることができる百貨店を通じて製品を主に販売していました。私たちはファッションアイテム、つまり日常生活のためのアートを販売していたのです。現在、ビジネスはより若い層をターゲットにしており、リボン、ボンボン、ミッキーマウスなどの可愛らしいモチーフを特徴とする子供や赤ちゃん向けの製品が多くなっています。

―― ホーエンベルクへの追加投資の計画はありますか?
山川和子:自分の年齢を考慮し、未来がもたらすものに対してオープンでなければなりません。厳密には投資ではありませんが、昨年、ミュンヘンのVolk Verlag社よりドイツで自伝「ENN – der Schicksalsfaden: Eine bayerisch-japanische Erfolgsgeschichte」(直訳:縁 – バイエルン・日本の成功物語)を出版しました。この本にはフェイラーについての広範な情報と素晴らしい製品の写真が含まれており、彼らの知名度向上につながることを願っています。フェイラーがドイツでは広く知られていないことを知ったので、本国でより大きな認知を得ることを心から望んでいます。
もう若くはなく、別の大きなプロジェクトのために十分な時間があるかどうか分かりません。しかし、状況が許せば、家族が不在の間に高齢者が短期間滞在できるショートステイ施設を設立したいと思います。この追加サービスは、ホーエンベルクの住民が年齢や健康ニーズのすべての段階で包括的なケアを確実に受けられるよう助けになるでしょう。私はドイツの人々と時間を過ごすことを心から楽しんでいます。4番目のプロジェクトが実現できるかどうかを判断するには、私の意欲と高齢化の現実のバランスを取る必要があるでしょう。



